竹山重光のWeb Site

最近の更新
2017/10/21, 哲学のところと和歌山看護専門学校のところに、スライドを追加。
さらに、倫理学のところでスライドへのリンクを削除。
2017/10/15, 和歌山看護専門学校のところにスライドを追加。

このWeb Siteには、 私の現在の職務に関連する文書類を置いてあります。

このWeb Siteそのものは、 公立大学法人 和歌山県立医科大学 医学部 教養・医学教育大講座の責任で運営されています。
(なんて長い名称なんだ)

このWeb Siteのコンテンツは私の作成によるものであり、 それらの著作権は私が所有します。

作成はEmacs上のYaHtmlで行なっています。

都合により、 Firefoxでしか見え方を確認していません。 これ以外のブラウザで御覧の人には、 ひょっとすると不具合があるかもしれません。 あしからず。

私自身に関する文書類

2013年度に入学した学生が描いてくれた、 私の似顔絵。 be in beautiful bloomという意味の名をもつ作者の了解を得て掲載。 無断転載は禁止です。 なお、実物はもっと素敵です。 嘘です。 (^_^;)

学生が描いてくれた、私の似顔絵

さて、私は上に記した大学、 講座に、 哲学や倫理学を担当する准教授として勤務しています。 そういう職業に就いた者として公にすることを一般に求められるデータは以下のとおりです。 リンクをつけてあるのは、 TeXからdvipdfmxを用いて作った、 pdf形式のファイルです。 二つとも日本語です。

〒641ー0011
和歌山市三葛580 和歌山県立医科大学医学部  教養・医学教育大講座

TEL 073ー446ー6700

kantake@wakayamaーmed.ac.jp (本当はすべてが半角文字です)

私の履歴書 (2012年2月下旬現在)

私の業績目録 (2012年9月中旬現在) なお、 このうちのいくつかは、 次の「私が書いたもの」で読めます。

私が書いたもの

私がこれまでに書いた文章のなかからいくつかを選んで、 ここに 掲載してあります。

私が担当する授業に関する文書類

以下に私が担当もしくは関わっている授業を挙げます。 リンク先のページには、授業の概要やテーマが記してあります。 授業で私が用いたスライドを掲載してあるページもあります。

倫理学

哲学

ケア・マインド教育(工事中)

教養セミナー:医療倫理事例研究入門(工事中)

Early Exposure 実習

倫理学 (和歌山看護専門学校)

時折の雑文

2017/08/24

藤原定家の歌集集成が、手に入れやすいかたちでしばらく前に出版された。 すなわち、
『藤原定家全歌集』上・下、久保田淳校訂・訳、ちくま学芸文庫
ちくま学芸文庫は着々とよいものを世に出してくれている。 うれしい。応援しなきゃ(つまり買わなきゃ)。

なにしろ4000首以上おさめられているので、まだ全部は読めてません。 いつか集中的に全部読みたいけど、そういうときが到来するだろうか。 無理な望みかな。 巻頭の「初学百首」における「秋廿首」から一首、「恋廿首」から一首紹介。 なお、「初学」というのは、定家が二十歳、生涯で最初に試みた百首歌ということだろうと解説されている。

風ふけばえだもとをゝにおく露のちるさへをしき秋萩の花

わたしの家の庭に萩を植えていて、さいわい毎年花を咲かせ、しらじらと散らしてくれる。 露も、早朝、目にすることはある。ことしの夏は変に暑いから、まだ目にしてなかったかもしれない。

いかにしていかにしらせむともかくもいはばなべての言のはぞかし

これは、ある面で素直なんだが、同時に凝りすぎかな。 解説によれば和泉式部を踏まえているらしく、嫌味を言うとすれば、お勉強の産物かもしれない。出来はいいのだろうけれど。


2016/06/26

有名な良書が、翻訳を新たにして刊行されたので、学生諸君読みなさい。

すなわち、トビアス・ダンツィク著、ジョセフ・メイザー編『数は科学の言葉』(ちくま学芸文庫、水谷淳訳)である。原書はNumber: The Language of Science.という。原書を横に置きながら読むともっとよい。 「文庫版訳者あとがき」で水谷が書いているように「このScienceという単語は、単に「科学」というよりももっと幅広く、「学問」または「知」と解釈したほうが内容的には近いかもしれない」からである。言わずもがなを付け加えると、「文系」だの「理系」だの東大語法から抜けられない日本人があいかわらず多いからである。

一つだけ紹介する。虚をつかれるけど、そのとおりだわね。

算術は,純粋数学も応用数学も含めすべての数学の土台である. あらゆる科学の中でももっとも有用であり, 一般大衆のあいだでこれ以上普及している学問分野はおそらくないだろう. (67頁)

2015/12/22

今回の哲学の授業では、 ヘリコバクター・ピロリを具体的事例として用いつつ、 科学的発見ならびに説明、 さらには因果関係とかについて少しばかり話している。 ただ、 「具体的事例として用いつつ」とはいえ、 ヘリコバクター・ピロリ物語の最初のあたりのみになる。 これは諸々の事情により仕方がない (この点、 来年度からもっと範囲が狭く限定されることになる。 つまらん世の中だ)。

そこで、最近出た本の紹介。 マーティン・J・ブレイザー『失われてゆく、我々の内なる細菌』(山本太郎訳、みすず書房)である。 原書はMartin Blaser, Missing Microbes -- How killing bacteria creates modern plagues。 原書はすでにペーパーバックになっていて、 安く手に入る(邦訳は3200円)。 なお、邦訳の訳者は、いま政治家をやっている人ではありません。 長崎大学の先生です。医療従事者。

いわゆるマイクロバイオータをめぐる興味深い本。 ヘリコバクター・ピロリも主要登場人物(?)だし、 その物語がいまどこまで進んでいるかの一端も分かる。

私たちヒトにとって、抗生物質は原子爆弾を手に入れたようなものだった。光景は根本的に変わった。(邦訳70頁)
私の中心的考えを繰り返しておくと、それは、常在菌が繁栄するにしたがい、ヒトはそれら細菌とともに、代謝、免疫、認識を含む集積回路を発達させる、というものだ。(邦訳204頁)
小児科医も他の医師も、抗生物質を処方する前に再考する訓練を受ける必要がある。状況を注意深く判断し、危険な感染か、あるいは穏やかなものかを判断しなければならない。……竹山による省略……判断は簡単ではない。何年もの経験が必要となる。……竹山による省略……子どもを注意深く診察し、両親と話し、なぜ抗生物質が必要でないかを説明し、疑問に答え、危険な兆候を説明し、最後に「何かあれば、電話をください」と言うことは、抗生物質をすぐに処方するよりも、もっと時間と熟練を要することなのである。(邦訳224頁以下)

ほかにも考えさせられるテキストがたくさんある。 学生諸君、読みなさい。 もし興味が湧かないというのなら、 遅きに失せぬうちに心身を作り直しなさい。


2015/07/19

Shakespeareのソネット73の一部

In me thou see'st the twilight of such day
As after sunset fadeth in the west;
Which by and by black night doth take away,
Death's second self, that seals up all the rest.
In me thou see'st the glowing of such fire,
That on the ashes of his youth doth lie,
As the death-bed whereon it must expire,
Consumed with that which it was nourish'd by.
ただなんとなく、 記したくなった。 日本語に訳したりはしません。 野暮だから。


2015/01/27

『日経サイエンス』の2015年3月号が「STAPの全貌」という特集を組んでいる。 「幻想の細胞――判明した正体」と「事実究明へー―科学者たちの360日」という二つの文章からなる。

ゆっくりじっくり色々と考えながら読むべき文章。 自分が「理科系」だなんていい加減な言葉を嘯いている者は読むべきでしょう。 読んで考えられるかどうかは別の話だけど。 それにしても、 そろそろ社会的出来事としては決着がつくというか、 落ち着いていくというか、 そうなるのかな? あんまり感心しないなあ、 それだと。

そんなことを思っていたら、 オボカタさんに対して刑事告訴がなされたという報道あり。 想定されうる出来事だし、 生じてあたりまえの出来事でもあるのだが、 なんか、もっと別の何かがなあ。


2014/12/21

先日、 試験監督の手伝いをしていて、 学生が取り組んでいる試験問題をのぞいてみたら、 主に行列関係の出題だった。 行列の固有値を考えるものもあった。 学生諸君、 いいこと勉強してるじゃないの。

「なんの話?」と思われるだろうが、 最近、 こんな本を読んだからそう思ったのです。

小野田博一、 ようこそ「多変量解析」クラブへー何をどう計算するのか―、 講談社ブルーバックス

面白い本だから、読みなさい。 ついでにいうと、この本、ちょっとだけ萌えてます。


2014/10/02

しばらく前にこの欄で紹介し、 「みずから購って読むべし」とも書いた、 『大学生物学の教科書』シリーズ(講談社ブルーバックス)がとうとう完結した。 第5巻「生態学」を、 昨日、 天下茶屋の天牛堺書店で入手したぞ。

同巻の冒頭に、 「監訳者を代表して」ということで、 群馬大学医学部の石崎さんという人が文章を書いている。 その一部を引用する。 よく読みなさい、学生諸君。

第1〜3巻は望外のご好評をいただくことができた。 医学部の学生でも数千円の教科書すら購入せず、 勉強は教員が準備した配布資料のみですましているものが多い。 こういう勉強のしかたでは、 知識の体系的な積み重ねは困難であろう。 教科書を手元に置く意味の一つは獲得した知識の体系化が容易になることであり、 体系化された知識でないと使い物にはならない。

私から少しばかりコメント。

「医学部の学生でも」というのはむしろ、 「医学部の学生なぞはとりわけ」じゃないのか? 「有難くも教員が準備した配布資料」と、 「クラブの先輩から代々受け継がれてきた、 有難いんだか迷惑なんだか分からない過去問集」のみですませているんじゃないのか?

ふだん、 諸君を見ていると、そう思うけど。

「知識の体系的な積み重ね」とか「知識の体系化」はもちろん重要なことである。 教科書はそのために有用である。 けれども、 「教科書にはどうしてこんなに理路整然と体系的に書いてあるんだろうか」と思えるところまで、 ちゃんとした教科書を基準点としてさらに自分で勉強するのが、 もっともっと重要。


2014/09/25

日本語の訳文が少し気に入らなかったので、 手を加えました。

2014/09/23

勉強していて、「ふむふむ」と感心した一節。 何度めの感心なのかは分からない。何度も感心してきた。

Wenn einer Wissenschaft geholfen werden soll, so muessen alle Schwierigkeiten aufgedeckt und sogar diejenige aufgesucht werden, die ihr noch so ingeheim im Wege liegen; ......
ある学問のために手助けがなされるべきだというのなら、 すべての困難があばき出されねばならない。 さらには、 その学問の行く手をなおもひそかに妨げている困難が、 さがし出されねばならない。

カント先生の『実践理性批判』、 「分析論の批判的解明」の終わり近いところ。 Akademie Ausgabe, V103.です。


2014/08/28

雑誌『現代思想』(青土社)の8月号が「科学者―科学技術のポリティカルエコノミー」という特集を組んでいる。 もちろん、「ありまーす!」の騒動に触発された特集である。 さきほどそのすべてを読み終えた。 なかなかよい特集でした。

小柴昌俊にインタビューしていて(「科学者のやり方」という記事)、 小柴さん、こんなこと言っている。

STAP細胞は大きなことで、 そんな大きなことを発見するにはあの人は科学者らしくない。 テレビの前に出てきて泣き顔をしてみたりするなんて、 科学者ではありません。

おいおい、これだけで片付けちゃうのかね。こりゃだめだ。


2014/07/13

公用・私用合わせて現在かなり多忙で、 夏休みだという気がしない。 そのあいまを見て読んでいる本の紹介。 まだ読了していない。

セドリック・ヴィラーニ『定理が生まれる—天才数学者の思索と生活』(早川書房)という本。 数年前にフィールズ賞をとった人の著書。 かなり面白い。 読んでいて、感心したり、ニタニタしたり、吹き出したりする。 たとえば第1章の第3段落。

机の左側に置いた作業台にはテスクトップパソコンがのっている。 右側の作り付けの棚には数学や物理に関する書籍が数百冊並んでおり、 背後にある長いラックの上には資料が整頓されて置いてある。 何千枚にもおよぶ記事の山。 まだ科学誌が電子化されていなかった「古代」にコピーをとったものだ。 それから好きなだけ本を買うには給料が足りなかった頃にコピーしたおびただしい数の専門書の複製。 メモ書きは優に1メートルの幅を占めており、 長い年月をかけて様々なものを網羅したアーカイブと化している。 同じく大量の手書きのノート。 これは気の遠くなるほど長い時間、 研究発表を聴講した証しだ。 そして目の前の机には愛用のノートパソコン「ガスパール」がある。 フランス革命期の偉大な数学者ガスパール・モンジュにあやかってこの名前をつけた。 世界各地の旅先で書き殴った数式で埋めつくされた紙は、 必要になったらいつでも見られるようひとまとめにして積み上げられている。

「コイツ、俺のとほぼ同じような部屋だな」と思って大笑いした。 パソコンに名前をつける趣味を私はもちあわせないけれど。

それにしても書名の「天才数学者の思索と生活」というところ、 なんとかならないのかな。 早川書房がつけたのだろうけど、余計だわ。


2014/06/16

しばらく前にここで紹介した講談社のブルーバックス、 『バイオテクノロジーの教科書』の下巻がすでに店頭に並んでいる。 上巻も下巻も画像が綺麗だし、 学生諸君、 みずから購って読むべし。

実は、私には、ほんの少しだけど、活字が小さすぎる……


2014/05/24

何度めになるのかはっきりしないが、 鴨長明『方丈記』を読み返している。 前回は岩波の『大系』(新しい方)におさめられたものだったが、 今回は数年前に出た、 ちくま学芸文庫のもの。 浅見和彦の校訂および訳。

……いづれの所を占めて、 いかなるわざをしてか、 しばしもこの身を宿し、 たまゆらも心を休むべき……
……その間、 折り折りのたがひめ、 おのづから、 短き運をさとりぬ……
……仮の庵も、 ややふるさととなりて…… 寄居(かむな、と読む)は小さき貝をこのむ。 これ、 事知れるによりてなり。 みさごは荒磯に居る。 すなはち、 人をおそるるがゆゑなり……
……夫(それ、と読む)、人の友とあるものは、 富めるをたふとみ、 ねむごろなるをさきとす。 必ずしも、 情(なさけ、と読む)あると、 すなほなるとをば愛せず……

今回はたとえばこういうところが沁み入った。


2014/04/29

前回記した歌はどういう意味なのか尋ねられたりするのだが、 よく知られた歌なので、 ネット上で検索すれば教科書的な意味は突きとめられるはず。 説明するのは無風流(ぶふうりゅう、と読む)というものでしょう。

それに、 あの歌は拾遺集では詠み人知らずとして詞書抜きで記載されているのだが、 私はそれと同じ仕方で引いていない。 私の文章を前置きしている。 教科書的な意味とはかぎらないかもしれませんよ。

それはさておき、 しばらく前に講談社のブルーバックスから『大学生物学の教科書』というのが3巻本で出版されて、 おそらく生物学の先生から紹介されているだろう。 私も授業でなにかの機会に紹介した。 学生諸君、 つい最近『バイオテクノロジーの教科書(上)』というのも同じくブルーバックスから出版されたので、 みずから購って読むべし。 下巻はまだ出てない。 5月刊行予定。


2014/04/02

新年度になって、 人の動きもあって、 かなり憂鬱。 今回は憂鬱に加えて寂しい。 当地は桜が盛を迎えていて、 仕事場のゆきかえりにそれを見上げてしまう。

もう20年来、 この時期になると拾い読みしている本の一節。 山田孝雄(やまだ・よしお、と読む)の『櫻史』(おうし、と読む)。 講談社学術文庫77頁。

櫻狩といふも亦花見なり。 されど、 おのづから別の趣あるはもと鷹狩に出でしついでに花を賞せしが、 いつしか、 狩りのことは忘られて花見のことのみとなりける様と思はる。 かくてこは当初の鷹狩の事はなくなりたれど、 遠く野山を狩り暮らして一二泊も旅寝すること多かりしやうなり。 その事の歌に見ゆるは拾遺集によみ人不知の歌としてあげたる、
櫻狩雨は降りきぬ同じくは
ぬるとも花のかげに隠れむ

2014/03/13

あいも変わらず色々と用事があって、 なかなかこの時期は落ち着かない。 そういうときにこそ、 古典的なものをちょっと拾い読みして気晴らしをする。

Werd ich zum Augenblicke sagen:
Verweile doch! du bist so schön!
Dann magst du mich in Fesseln schlagen,
Dann will ich gern zugrunde gehn!

ゲーテのファウスト第一部にある、 有名な台詞が含まれている箇所(1699行め以下)。 「時よとまれ。おまえは美しい」という言い方で流布している。 ここのzum Augenblickeはなかなか難しい。 池内紀が「とっさに」と訳していて(集英社文庫)、 ちょっと驚いた。

それはさておき、このファウストの台詞はWerd ichと始まっているので、 「もし私が『とどまれ。おまえはとても美しい』と瞬間に言ったなら、 そのときおまえ(メフィストを指す)は私を鎖につないでいい。 そのとき私はよろこんで滅びよう」とさしあたり訳せる。 つまり、 少なくともこのときのファウストに、 「時よとまれ。おまえは美しい」と語るつもりはない。 むしろ、私にそんなときが訪れるはずはないという心持ち。 強烈で動的な、 未来への志向。 なにしろ若返っちゃうんだからね。


2014/02/28

『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』から引用したはじめのテキストにある 「それらの欠陥の周りにある肉を……」は、 「それらの血管の周りにある肉を……」の変換ミスです。

なんとも恥ずかしいかぎり。


2014/02/24

世の中の一部で流行っている「自炊」というのをしばらく前から行なっている。 学生の頃に購入した古本、文庫本、新書本のなかには、 もう紙が茶色になっていたりするものがある(年取ったということだ)。 そういうものから少しづつ電子ファイル化している。 そういう作業をしていると、 思わず読みふけってしまうことがあって、 時間の無駄のようでもあるが、 とても有益で反省を誘うことでもある。 岩波文庫の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』(杉浦民平訳)の下巻にある一節。

そんな図(デッサン)を見るよりも解剖を行うところを見る方がよいと称するおまえは、 もしそういう図においてならただ一筆で示されているあらゆる細部までを〔解剖においても〕見ることができるとすれば、 あるいは正しいかもしれぬ。 だが解剖においては、 おまえの才能を尽しても、 二つ三つの血管以外は見ることも知ることもできないであろう。 それ〔血管〕に関する正確かつ完全な知識を得んがため、 私は十あまりの人体を解剖し、 さまざまな肢体すべてを解き、 そして毛細血管から出る目に見えぬ血のほかにはいささかの出血をも起こすことなくそれらの欠陥の周りにある肉をごく微細なきれはしに至るまですっかり取り除けてしまったのである。 おまけに一個の屍体だけではそんな長い時間に十分でなかったので、 次から次へと数多の屍体によって継続する必要があった。 こうしてやっと完全な認識に達したのであった。 さらにその差異を調べるためにそういう過程を二度も繰り返したのである。 (p.219f.)
おお著述家よ、 いかなる文字によっておまえはここで図解がやっているのと同じ完璧さで全体の図形を解くことができるか。 おまえは、 知識をもたないために、それをごちゃごちゃに述べ、 対象の真相をほとんど認識せしめない。 <……中略……> いかなる文字でおまえは、 一冊分を宛てないで、 この心臓を描写しようというのか。 おまえが事細かに長々しく書けば書くほどおまえは聴手の頭を混乱させることになるであろう。 (p.220f)

近代の基本動向。Naked to the Boneという題名の本も昔読んだな。 これはまだ電子ファイル化してないな。


2013/12/05

過ぐる11月25日にはめずらしく暴風警報が発令されて、 結局は終日休校になった。 そのせいで哲学の授業ができなかったので、 残りの授業回数と講述内容との調整が難しくなっている。 現在の日本の暦では月曜日はこんな風になりがちなんだよな。 困ったもんだ。 年末年始のうちに残りの授業で何を扱うかを考えておくと学生には伝えたんだが、 もう決めました。

「因果関係」の話のみにして、 その他の予定していたトピックはカットします。 これに連動し、 「因果関係」に関して例年よりも少し立ち入って話します。 同じくこれに連動し、 試験が難しくなるかもしれません。 (^_^;)


2013/10/28

今日の哲学の授業で、 出たばかりのNature Digestに掲載されている、 ある記事を紹介した。 興味をもった学生もいて、読めるように手配した。 そういう学生もいなくちゃね。

研究室にもどり、 上記と同時に郵送されてきた最新号の『日経サイエンス』をぱらぱら拾い読みしていてびっくり! 今月号の特集は「食欲」なんだけど、 こんなことが書いてある。

味覚は口だけにあるのではない。 近年、体の様々な場所に味覚受容体が発見され、 それによって古くからの謎のいくつかが解明された。 ブドウ糖を口から摂取すると、 同量のブドウ糖を直接、 血液中に注入した時よりはるかに急激にインスリンが放出される。
なぜだろうか。 50年間にわたり理由が探られ、 2007年、 小腸の内面を覆う細胞にも味覚受容体があることが発見された。 この腸の甘みセンサーが糖を検知すると一連のホルモンが放出され、 その結果、 インスリンが血液中にどっと流れこむ。

他にも色々なところに味覚受容体が見つかっているそうで、 鼻の内側の細胞には苦い化学物質を感じる細胞。 気管にも苦味検知器。 ここまではまだいいとして、 膀胱(!)の内面には甘味受容体。 背骨(!)には酸味受容体。 なんと睾丸(!)には苦味(!)を感じる能力があり、 精子(!)はうま味(!)を検出できるという。

なんちゅうこっちゃ? わけわからん。 それにしても、この上なく興味深い。


2013/10/11

なんだかちっとも涼しくならないので、 心身ともにあまり調子がよくない。 「フクシマはコントロール下にある」とか「日本は水銀、水俣病を克服した」とか、 大嘘をつく政治家(あるいはその原稿を書いた役人)がいたりするので、 機嫌もよくない。 学校が後期になって、 先日非常勤講師としていっている大学(院)に向かう途中、 よせばいいのに本屋に立ち寄ってしまって、 つい買ってしまった本を紹介する。

宮子あずさ『看護師という生き方』、ちくまプリマー新書、2013

宮子氏はたくさん著作があるから、知っている学生もいるでしょう。 いまも現役の看護師として働いてもいる人。

呼吸停止した患者さんのベッドに飛び乗り、 患者さんは失禁されていたので膝から下をうんこまみれにしながら 渾身の心臓マッサージをする、研修医ヒロセの話。

……熱血研修医のDr.ヒロセは、時にどん引きさせられながらも、 憎めない人でした。常識がすっ飛ぶ閾値が低く、 容易に常軌を逸してしまうのですが、 性根は決して腐っていませんでした。 / 長年この仕事をしていると、常に常識的に振る舞う能力には長けているけれども、 性根が腐っている、という人とも出会います。 これはあくまでも私の感覚ですが、 高齢者の蘇生にはハナから熱心でない若い医師が、 私は怖くてなりません。 (p. 30)

ちょっと抽象的だが、 とても分かりやすい、 重要な話。

看護師という生き方を選んだら、いろいろ考えることです。 できることはそうそう増えません。 だから、できることより、わかることが大事。 でも、そうそう簡単にわかることってないから……。 結局、考えることがいちばん大事なんですよ。 そう思ってからが、この仕事はいよいよ深みを増していくでしょう。 (p.130)
あれこれ考え、自分の持ち札で足りなくなる感覚までいってしまう。 この体験は貴重です。 / 自分の思考が及ばない地点に行くと、 そこにまた新たな世界が始まります。 (p.166)

「できる」っていうことに何だか変に執着する人種のひとつが、 医者じゃないかしら。 ちがうかね。


2013/09/01

今年の夏は非道い暑さで、 まだそれがおさまらないから困ったもんだ。 私は寝不足が続いている。 そういえば、 数年前、 数軒となりに一人で暮らしていたご老人が自宅で倒れているところを発見されて (連絡が取れないので不審に思ってやってきたヘルパーさんが、 窓ガラスを壊して中にはいり、 発見された。 熱中症である)、 もちろん救急車で病院に運び込まれ、 そのときは一命をとりとめたのだが、 数カ月後に病院で亡くなった。 それを思い出す。

この夏はさらに、 若年性冷蔵庫侵入写真投稿症候群という馬鹿げたものも散見された。 ほんまに馬鹿である。


2013/05/27

目論んでいたよりもだいぶ遅くなったのだが、 授業で用いたスライドの掲載をようやく開始できた。 学生諸君(とりわけ普段教室にいない諸君)、 活用するように。 しないと不合格になる可能性が高まるよ。 子どもじゃないはずだから、 各人の自己管理にまかせるけど。

それはさておき、 暑かったり寒かったりの変動がおおきな日々が続いたので、 心身が少しばかり低調である。 朝起きて弁当や朝食を作るときに、 なんとなく「食欲」に関係することを行なうのが億劫になる、 あるいは、 いささかそれに対する嫌悪感がある。 今朝は炊いた米を食べる気がしなくて、 うどん少量にとろろ昆布投入、 で済ませてしまった。 ううむ、これではいかん。 新玉葱をまるごとスープ煮にして、 薬がわりに食べようかな。 辰巳芳子さんの『スープの手ほどき』(文藝春秋)2部作、 自宅のどこかにあるはず。 これ美味しいんだよなあ、 おお、 食欲が湧いてきた!


2013/01/11

『Narureダイジェスト』の2013年1月号に掲載されている、 「環境ホルモンをめぐる攻防」という記事が興味深い。 内分泌攪乱物質、 世にいう環境ホルモンに関するもの。 常識的な、あるいは専門家集団における一般的理解では、 曝露量と毒性とは正比例するということになっている。 言い換えると、 ある物質が高用量では有害であっても、 低用量ではそれほど危険ではない、 逆に、 ある物質が低用量では無害であっても、 高用量では危険、ということになっている。 線グラフでイメージすると右肩上がりの直線、ということ。

ところが、 内分泌攪乱物質の多くは、 そういう単調なグラフにはならず、 非単調な曲線になるという。 たとえばU字型、あるいはひっくり返したU字型、 さらには、 凸凹のグラフということ。 そしてこの点は、 すでに多くの専門家が認めるところになっているという。

これはとても興味深い。 さらに、 人間がこれに対応しようとすると、 とても厄介なことは明白だ。 記事でも、 さまざまの立場の科学者(政府で働く、産業界で働く、大学で働くなどなど)が 激しい論争を繰り広げていることが述べられている。 とうとうFDAが決着をつけるために乗り出したらしい。

哲学の授業で少しばかり紹介したり考えてみたりもしたことが、 これから起こってくるのだろうなと思うと、 どう言えばいいかな、 「ワクワクする」のかな、 「辟易する」のかな。


2013/01/04

あけまして、おめでとうございます。 ええい、何がめでたい? もう仕事しとるわい。

正確にはこの冬休みに読んだとは言えないのだが、 この冬休み、 クリスマスの日に読了した本の紹介。

Urs Thurnherr: Die Aestheik der Existenz --- Ueber den Begriff der Maxime und die Bildung von Maximen bei Kant. 1994, Franke Verlag.

カント研究文献をここで紹介してどうするの、という感想もあるだろうが、 以前ハイデガーの講義録についてここに書いたこともあるので、まあいいでしょう。 企業秘密の部分的大公開です。 私はこの本そのものを所有してはいません。 図書館ネットワークで現物借用し、 全部コピーして綴じたものをもっているだけ。 コピーして綴じたのは、 記録によると2007年の夏。 コピーしてくれたのは、 そのころ事務アルバイトをしていた、 テラシタさんだったと思う。 私くらいの年齢になると、4年や5年前というのは、それほど昔ではない。 「ちょっと前」くらい。

洒落た題名でしょう。『実存の美学』と訳せばよいのでしょうか? いやいや、そんな単純なことではありません。 こう日本語に移して完全な誤りということでもないんだけどね。 そこんところが、 この本の勘所です。 いわゆるレフレクシオーネンに倚りかかりすぎと判定されるが、 かなり良い本。


2012/12/09

ここ数日、とても寒い。 さきほど気象庁のサイトで調べたら、 和歌山市の今日の最低気温は昼の12時に観測された2度3分だ。 これはひどい。

最近購った本の紹介。 非常勤で授業をしているある大学(院)の院生たちは、 すでに本そのもののことは知っていたし、 紹介したら興味を覚えたようだ。 和医大の学生はどうかね?

A.W.ムーア『無限------その哲学と数学』、 講談社学術文庫

この本は基本的な文献で、原書は1991年に第1版、第2版が2001年に出ており、邦訳は1996年に出ている。 よせばいいのに、 ふらっと天牛堺書店に立ち寄ってしまい、 「おや? 文庫本化されたんだな」と棚から取り出してパラパラめくっていたら、 訳者のこんな文章が目に入った。

「第1版の翻訳は、1996年に…略…から出版された。 訳者にとっては初の訳書であったが、私の未熟と非力ゆえに、 思いもかけない誤訳が少なからず見つかった。 第1版の読者に多大のご迷惑をおかけしたことを深くお詫びしたい。 このたび文庫として再版する機会を与えられ、 誤りなきよう特段の注意を払いつつ改訳に務めた。 同時に、 原書第2版における修正も全て反映した」

偉い! 立派だ! ということで、買ってしまいました。


2012/09/07

だいぶ、ご無沙汰してました。

この夏休みは昨年度に続いて公開講座を催し、 上に記したとおり看護協会の講習会もあり、 宿泊人間ドックに行って、 いわゆる胃カメラで慢性胃炎であることを自分の目でも確認したりして、 なにかと忙しかった。 「ああ、はや終わりぬ。わが夏の日を返せ!」といった気分。 残暑がとても厳しくて、 気候としてはまだ夏みたいだけど。

それでもまあ、勉強も多少はできて、 自分の仕事に関係する文献とか、 それ以外の色々な書物も読んだ。 前者に関しては企業秘密なので (半分くらい本気です)、 ここには記しません。 後者から1冊紹介。 学生諸君、よい本です。 この5月に出版されたばかり。 学生の感覚からすると「値段が高い」かもしれないが、 よい本なので読むべし。

カール・ジンマー『進化ー生命のたどる道』、 長谷川麻里子日本語版監修、 岩波書店

それから、 この8月に、 周知の名著が文庫化された。 みずから購って、 是非読むべし。

川喜田愛郎『医学概論』、ちくま学芸文庫

ちくま学芸文庫はここ数年とても頑張っている。 「余人は知らず、 われ正統派たらん。 真っ向勝負!」といった趣きがある。 大学生や大学院生が購入して応援してやらないと、 のちのち文化的損失に見舞われるかもしれない。


2012/02/14

この時候は私のような職業の者は忙しい。 多種多様、 また重要無用いりまじった用事が山積みになる。 身体的にも精神的にもしんどいのだが、 「お仕事」だから仕方ない。

こういうときには本を読むにかぎるので、 あいまあいまの気分転換に、 『記号論理入門』(日本評論社)をポツポツと読んでいる。 著者は前原昭二という数学者。故人。 この本はそれなりに有名で、 もともとは1967年に出版されている。 しばらく前に新装版になっているというのをつい先日知って購入した。 まず、 この本のいいところは、 著者の日本語。 いわゆる「ですます調」で書かれているのだが、 それだけにとどまらぬ味がある。 そんなこと論理学の本に関係あるのかと言われるかもしれないが、 「読む」わけだから当然関係ある。 たとえばこんな具合……

真の学問とは、けっして、 机に向かいネジリハチマキでするものとは限りますまい。 わたくしは、この本を、 電車のなかでも、 寝床のなかでも読んでいただけるようなものにしたいと思いました。 もっとも、 机に向かって読まれる場合のことも考慮して、 練習問題を入れておくなどという余計なことまで考えました。 解答は巻末にまとめてあります。

こういうところ、なんとなく私は好き。 もうひとつ紹介……

<人間は死ぬ>というのが全称判断であることを強調するために <すべての人間は死ぬ>というように表現することも多いようです。 これと同様な意味で …(残念ながらここは論理記号が使ってあるので飛ばします)… を<すべてのFはGである>と読めば、 誤解のおそれは少なくなります。 しかしながら、 日本語とか英語のような日常語においては、 つねに内容を正確に表現することにのみ重点がおかれているわけではありません。 日常語による命題の表現を論理記号による表現に移しかえる場合には、 いささかの注意が肝要であります。 それは、 日常語によって表現された内容を正確に理解することによってはじめて達成されることであります。

「日常語によって表現された内容を正確に理解することによってはじめて達成される」。 これ、ほんとおぉぉぉにっ、その通り (失礼、下品な文字遣いになってしまった)。 論理記号への翻訳という場面のみならず、 かなり多くの場面でとても大事なこと。

たとえば、 試験問題の設問の文章を書いてあるとおりに正確に理解する、 ということなんかがそうですな。 重要にして難事。


2012/01/29

先日はじめて和歌山県新宮市にいってきた。 なぎ看護学校で授業である。 学校に向かう途中、 台風によって出た瓦礫の集積場所を通りかかった。 まだまだたくさんの人がそこで働いていた。 仕事が終わった帰りの日、 氾濫した熊野川に行ってみたのだが、 この規模の川がこの大きさの堤から溢れたのかと思うと、 目がくらむような気がした。 新宮駅には「おかえりJR」という垂れ幕がかけられていて、 これにもまた色々と考えさせられた。 なお、 新宮駅の駅員さんは男性も女性も感じのよい人でした。 それから、 通りには昔ながらの赤い郵便ポストがあって、 ちょっとうれしかった。


2011/11/29

前回、「天牛書店」と記したが、 正しくは「天牛堺書店」です。 一字違いだけどそもそも会社が違う。 間違えました。

『日経サイエンス』の2012年1月号が発売されて、 例によって購入してパラパラめくっていたら、 大笑いした。 国立科学博物館動物研究部研究員の川田伸一郎という人の取材記事。 モグラ(モグラって謎に満ち満ちた、 未解明の動物なんだな。 これ読んで感心した)の分類学を専門としている。 より詳しく言うと、 モグラの染色体を研究しているそうだ。 で、 世界各地にいろんなモグラを捕まえに行くそうだ。

現地調査はハードだ。 そもそも訪ねる場所が辺境にあることが多い。 モグラを捕獲したら、 標本作りと並行して染色体研究のための組織採取と遠心分離器による細胞分離、 簡易培養を行う。 だからそうした機材も持ち運ぶ。 遠心分離器は手回し。 中国雲南省では空気が希薄な標高4000mの山上で行い、 息も絶え絶えになった。 培養器などないから、 「腋の下に1時間ほど培養チューブを挟んで温めた」。

うひゃあ、「手回し」の遠心分離器を「標高4000メートル」で! さらには「腋の下」! 笑ってしまうけれど、 こういうのが研究なるものだし、 楽しいんだろうな。


2011/11/17

久しぶりに本の紹介。

昨日、 非常勤講師として出講している大学(院)への行き帰り、 電車のなかで、 野崎昭弘『数学で未来を予測する---ギャンブルから経済まで』(PHPサイエンス・ワールド新書)というのを読んだ。 昨日は南海天下茶屋駅にある天牛書店に足を向ける気になって、 たまたま購入したのである。 野崎さんは『詭弁論理学』の著者として有名な人。

……このむずかしい現代社会では、 数学に限らず、 万能の特効薬・簡単な予想法・手軽なマニュアルなどは存在しない。 そんなものに頼って思考停止に陥ることは、 自分にも他人にも害を及ぼす、 一生のソンである。 それよりは「自分の頭で、 しっかり考える」ことが、 ほんとうの「生きる力」になる。 そして数学的な考え方は、 この「しっかり考える」ところを助けてくれる、 と私は考えている。 (p.3f.)

私も、 そう考えます。 哲学や倫理学を学ぶために重要な勉強を高等学校の科目名で言うと、 「語学(日本語と英語)と数学」だもんね。

もうひとつ引用します。 電車のなかで笑いをこらえ、 表情を変えずにいるのにちょっと苦労した箇所 (改行や強調は再現してません)。

ここまでくれば、 「数学が、なぜ多くの人に嫌われれるか」も、 よくわかるに違いない。 そう、 数学の考え方は、 人間が本来得意としている「直観的に、 すばやく判断を下す」ことに反しているのである。 昔、 工学者の南雲仁一先生に、 「人間の中で、 頭の一番無理な使い方をしているのは、 数学者だ」といわれたことがあったが、 たぶんその点をさしておられたのであろう。 ついでながら私が「それなら、 頭の一番自然な使い方をしているのはだれですか?」 とお尋ねしてみたら、 「政治家」というお答えであった。 これもなかなか説得力があるように、 私には思えた。 (p.33f.)

私にも、そう思えます。 いいねえ、これ。

なお、 この本は全体としては易しい本だし、 「考え方」という点を視界から外さないようにして読むといいでしょうな。 おもしろかった。


2011/10/11

先日富山大学で行なわれた学会で、 全国各地から集まってきた同業者たちと色々懇談したのだが、 当然のことながら、 東日本大震災および福島の原発のことがさまざまの角度から話題になった。 学会として、 これをめぐる緊急の共同討議も行なわれた。

以前ここに記したように、 この件について色々と考えはするにしろ、 語るのは難しい。 したがって今回も何も記さない。 それでも、 「そういえば、和歌山もこのあいだ、 とんでもなく大変だったじゃないか」と言ってくれる人がいて、 「ええ、仮設住宅を作ってますよ。和歌山でも」と答えた。 いわゆる「せきとめ湖」の問題など、 落ち着くまでまだまだ時間がかかるのは明白だ。

今のところ何が語れるわけでもなく、 何かできるわけでもないけれど、 和歌山県庁が作成したロゴを載せておきます。


2011/09/27

『日経サイエンス』の11月号を昨日購入して、 パラパラめくってみると、 「世界を変えた日本の頭脳ーノーベル賞に近い人たちー」という特集が組まれていた。 日本の自然科学研究者が何人も扱われている。 それぞれの人がやっている研究は興味深い。 これはもちろん日本版の編集部が作ったのだろうけど、 ま、そういう時候なわけだね。 だけど、私はちょっと違和感をおぼえる。

ノーベル賞をもてはやす度合いはおそらく日本が世界一高いのだが、 それは措く。 違和感というのはつまり端的に言うと、 「なんで日本人かどうかがそんなに気になるの?」ということ。 「自然科学研究、 あるいは学問研究なら、 どこの国の人だろうといいやん」ということ。

私はどうも子どものころからそんな感じ方だったようだ。 たとえば、 私の出身高校の卒業生のなかにはノーベル賞をもらった人がいるんだが (あ、川端康成です)。 高校生の頃から、 「そんなこと俺にはまったく関係ない」と思っていた。 「学校それ自体がどのようであるか、 それは俺にはまったく問題にならない」とも思っていた。 「学校そのものをあてにするとか、 学校がたまたまもっている特性を頼りにしたりするのは愚の骨頂だ」とも思っていた。 「民族だって、近代国家みたいなもんだって、消えてなくなるんだぞ、世界史を勉強せい!」とも思っていた。 ま、変な子どもだな。


2011/08/29

まだ9月になっていないのだが、 今日から授業がはじまった。 この年齢になってこれまでの習慣および習性に変更をせまられるのは些か苦痛だが、 致し方あるまい。 当地はまだまだ暑く、今日の最高気温は気象台によると33度! なかなか厳しい。

学生諸君、気合を入れ直してやっていきましょう。 もうすぐ定期試験だしね。 読んだ本などの紹介をしようと思っていたのだが、 今回はスライド更新のみでパスします。


2011/07/07

今日は七夕なのだけれど、当地は残念ながら現在のところ天候がよくない。 ともかく、あともう少しで夏休みですな。 1年生諸君はここの学生になって最初の夏休み。 さぞや楽しみにしていることでしょう。 きっと、 旅行の計画など立てていることでしょう (グループ旅行かな? それとも一人旅かな? 二人旅かな?)。 旅行の行き先としては、 国内もあれば国外も色々あるでしょう。

そこで、沖縄旅行をしよう(エメラルドの海! リゾート!)と考えている人のために、 数ヶ月前に出版された本を紹介しましょう。

須田慎太郎(写真)・矢部宏治(文)・前泊博盛(監修)『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていることー沖縄・米軍基地観光ガイド』、書籍情報社

私はつい数日前に入手して(私費でです)、 おもしろくてあっと言うまに読了してしまった。 とても美しい写真や、 とても恐ろしい写真などが満載です。 写真のみならず教唆に富むテキストもたくさんです。 すこしだけテキストを紹介しておきましょう。

普天間は「法律上の飛行場ですらない」……中略……日本の国内法では米軍基地は「日米安保条約上の提供施設」として、航空法の適用除外になっている……(p.83f.)
入江侍従長の日記には、こんな部分がありました。 「昨夜赤坂からの車中で〔昭和天皇から〕うかがった。 沖縄をアメリカに占領されることをお望みだったという件の追加の仰せ。 蒋介石が占領に加わらなかったのでソ連も入らず、 ドイツや朝鮮のような分裂国家にならずに済んだ」 こうした部分も以前はうっかり読み飛ばしていました。 でもここで沖縄の人たちは激しく怒り出すのです(p.129f.)。

「観光ガイド」の本なのにどうしてこういうテキストがあるの? と思った人は購入して読んでください。 この本が本土でたくさん読まれれば、 そして本土の私たちがこうしたことをめぐる勉強をつづけていけば、 ひょっとしたら、 よいことが起こるのかもしれません。 それにしても、 また沖縄に行きたくなったな。


2011/06/24

ずっとスタイルシートが無効になっていたのだが、 戻しました。 おかしくなったのはおよそ1年前。 ようやくだ。 効かなかったのは、 たんに記述が間違っていたから。 というか、 いじっている最中に要らぬところを消してしまい、 それに気づかなかったようです。 有効状態にもどったついでに、 少しばかり見え方を変更しました。


2011/06/23

今日は当地もとても蒸し暑い。 風が強いので少しだけ楽に感じられる。

今週と先週の月曜日、 高野山大学と和歌山県立医科大学との交換講義として、 それぞれ1コマ、合計2コマ授業をしてきた。 当該授業科目の名称は「現代思想」、 私への依頼は何か「医療倫理」に関わる話を、 ということだったので、 「日本の現代的問題としての脳死と臓器移植」というテーマで2コマ分話してきました。

「なんで現代的問題なの?」と思う人もいるかもしれない。 いや、「現代的問題」なんです。 敢えて嫌な言い方をしますが、 「無知は罪」。

だいぶ以前にも、 同じように出講したことがあって、 そのときには、 私の居住地から、 JRで橋本駅、 そこから南海電鉄で高野山駅、 という経路で往復した。 これがまあ、 時間はかかる。 疲れる。 「もう二度と、こんなこと、やんない!」と思ったものだ。 そこで今回は、 前日に南海電鉄で和歌山市駅から難波駅、 同じく難波駅から高野山駅(両方とも特急使用)、 授業が終わって逆順で帰るという経路を採用した。 移動そのものに要する時間はほとんど変わらない。 さらに、 「世界遺産高野山きっぷ」を用いたので、 山上バスは乗り放題。

宿坊で一泊したので、 高野山の地を探索する時間も少しもてた。 やはり価値ある、 見どころがいっぱいあるところでした。 疲れもほとんどなく、 むしろ少しばかりリフレッシュできた。

そうだ、往復の車中で読んでいた(まだ読了してない)岩波新書、 竹内啓『偶然とは何かーその積極的意味』はなかなかよい。 学生諸君、読みなはれ。


2011/05/22

3月11日以降の大変な状況について何事かを記すのはとても難しい。 何かをここに書いてもよいものかどうかすら迷う。 けれど、 すでに新学期になって、 職業上なすべきこととして、 授業で用いたスライドのアップロードをはじめたりしている。 つまり、 このサイトも動きはじめているわけで、 みずからの気にかかることにまったく触れぬわけにもいかないように思う。

『日経サイエンス』の6月号が「東日本大震災」の特集を組んでいる。 これで充分だとはとても言えないだろうが、 基本的な事実確認・認識をはじめるためにはよい特集だと思う。 扱われているトピックを私から少しだけ挙げる。

専門研究者における「共通認識」、「一般的な認識」…… これは科学論から見ても重要な概念。
昨年の冬に福島第1原子力発電所で行なわれた原子力防災訓練では、 原子力発電所がすべての電源を喪失した事態が想定されていた …… 想定のつきつめ如何ということなんだろうな。

『ニュートン』もほぼ全ページを用いる、 力の入った特集を組んでいる。 とりあえず情報提供的な文言のみとする。 何かを記すのはやはりまだまだ難しい。


2011/03/09

ハイデガーの講義録のひとつ、 Vom Wesen der menschlichen Freiheit -- Einleitung in die Philosophie を、 野暮用だらけの日々のあいまをぬって読んでいる。 こんな文言があった。

Die Art der Analytik richtet sich ... danach, wie auf das Ganze gedacht wird. In diesem Bezirk erst fallen die ersten und letzten Entscheidungen der Auseinandersetzungen der Philosophie --- und gerade hier ist die Einstimmigkeit am größten und einfachsten, während sie denjenigen, die Philosophie nur lernen und betreiben, ein Wirrwarr von Meinungen, Standpunkten und Lehren scheint, die dann mit Hilfe von Etiketten zusammengeordnet werden. (Gesammtausgabe, Bd. 31, S.182)

ためしに訳すと、

…… 分析論の方法が差し向けられているのは…… いかにして全体が考えられるかである。 哲学がなすさまざまの論究に最初にして最後の決定が下されるのはこの圏域においてであり、 …… ここにこそ、最も大きく最も簡素な一致がある。 その半面、 哲学をたんに学び、 身過ぎ世過ぎとしてやっているだけの人々には、 この一致は諸々の意見、諸々の立場、諸々の教説のごたまぜで、 それらが色々なラベルの助けを借りて一緒くたにされているものと見えるのである。
ハイデガーは講義では著作や講演よりも大胆な物言いをするところがあるのだが、 これもそのひとつ。 こんなことを記すとファンの人には怒られるかもしれないが、 しばらく前に人気を呼んだサンデルの講義にも、 この物言いがあてはまるところありだな。


2010/12/18

うわ、ずっとこの雑文を書いてなかったのだな。 雑文だから書かなくてもいいのだけれど。

それはさておき、 モートン・マイヤーズ『セレンディピティと近代医学ー独創、偶然、発見の100年』 (小林力訳、中央公論新社)という本が出ている。 哲学の講義でも紹介したのだが、 かなりおもしろいし、 medicineそのものに興味のある学生ならば、 楽しく読めるだろう。 いろいろと書いてあるんだけれど、少し紹介。
発見は、命令では生まれない。(p.207)
ビア・レビューシステムは申請者たちに、 他の研究者も重要だと考えているような、 ≪よくある≫研究を強いる。 …… ピアレビューは、 正当性を前面に出すことで独断主義を制度化している。 (p.360&361)
発見というのは、 本来、 創造的な行為である。 しかし、 未来の研究者が受ける教育は、 現在、 そうした創造に必要な考え方や技術を伸ばすようなものになっていない。 すなわち、 医学部や理系高等教育機関が重視するのは、 アイデアではなく事実であり、 過程ではなく結果である。 例えば、 試験は選択式で、 問題がひっきりなしに続いている。 これでは、 速く考えることだけが重視され、 知性や創造性といった他の特性は無視されてしまう。 カリキュラムも、 発見や現在の概念がどのように生まれ受け入れられるようになったか、 その過程をまったく無視している。 発見のマジックについて畏敬の念を抱いたり不思議に思ったりする感覚が欠けていて、 創造性やアイデアを結びつける方法を教えようという試みもなければ、 奨励することさえしない。 小さな事実を結びつけてブレークスルーを可能にするような考え方を教えなくてはならない。 (p.371f.)

授業で私が話したことにも関連しているわけだけど、 そこからさらに広がっていく論点でもある.


2010/07/04

私の研究に関連する洋書が先日到着したのだが、 そのうちの一冊になんと落丁がある。 読みはじめて気がついた。 20ページ分くらい。 厄介だなあ、取り次ぎ書店に連絡とらなきゃ。 蒸し暑くてへたっているのに瑣事が増えた。

久しぶりに本の紹介をしよう。 倫理学の講義で「共感」(Sympathy, Compassion, Empathy)を ほんの少し取り扱った。 これに関係する本。
フランス・ドゥ・ヴァール『共感の時代へ』(柴田裕之訳、紀伊國屋書店)
動物行動学と心理学のあいだを行き来して論じている。 霊長類をめぐる研究は、 周知のように日本もとても頑張っているし、 業績も大きい。 著者はオランダの人。 かつて『タイム』の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたそうだ。 寡聞にしてこれは知らず。


2010/06/28

ようやく、 倫理学のところも生命倫理のところも、 スライドを見ることができるようになった(はず)。

つい先ほど、 授業が終わった武田先生と打ち合わせをしていたら、 これまた教室から出てきた保健看護学部の学生に、 「スライドをコピーできない」と言われたんだけど、 今確認してみたらできるんだけどなあ? pdfブラウザで「保存」のボタンを押せばいいんだけど? どういうこと? よく分からん。 まさかパスワードを要求されてそこでお地蔵さん状態になっているのではないんだろうが。 いずれにせよ、 もう2週間ほどで生命倫理の方は筆記試験だし、 私のところに直接尋ねにきてもらうとありがたいんだけど。 どうしたもんかいな?


2010/06/17

あらま!? まだスライドにアクセスできないな。 「permissionがないよ」と叱られてしまう。 再度調整を試みます。


2010/06/15

昨日記した、permission変更作業を終了しました。 これで授業のスライドにアクセスできるはず。 ええと、「はず」と記すのは、 私がこのサイトのもとのファイルを変更してから、 それが公開状態になるまでに、 これまでとは違っていくつか中間段階があるからです。 それら中間段階に私は直接的関与はできません. なので、 今記しているこの文章が公開された状態になってからでないと、 私自身にもうまくいったかどうか確認はできないのです。 おそらくうまくいってると思うけど (あ、スタイルファイルの件はまだ対応してなかった。 これはぼちぼちやるとしよう)。


2010/06/14

学内LANシステムの変更が行なわれました。 このトップページのurlも変わってしまった。 さらに、 今現在、 このページにたどりつけたとしても、 サブディレクトリに行こうとしたら、 「permissionがないぞ」と叱られる状態になっています。 このページ用のスタイルファイルも読み取ってくれないので、 レイアウトが以前と違ってしまってます。

レイアウトくらいはなんでもないんだが、 授業のスライドを見にいくことができないのは困る。 できるかぎり早く、 倫理学のところだけでも、 設定をいじってなんとかしようと思ってます。 もうしばらくご猶予あれ。


2010/05/02

いわゆる大型連休中なんだけど、お仕事してます。 私の子どもも、 たくさん宿題が出てるようで、 勉強している。 したがって、 私も負けずに仕事しなければなりません。 というか、 授業がないときこそ、 仕事ができるんだよな。 大学の教員というのはそこらへんがなかなか理解してもらえないところ。

それはさておき、 先週非常勤で授業をしにいった帰りに買った本を紹介。 講談社ブルーバックスの新刊、 アイリーン・マグネロ『マンガ統計学入門−学びたい人のための最短コース』。 ざっと読んで基本的枠組というか基本的考え方をつかまえるのに、 いいんじゃなかろか。 書名に「マンガ」とあるけれど、 実際には、 挿絵がたくさんあるという趣き。 原書の題名はIntroducing Statisticsだしね。

監訳者である神永正博という人がこんなことを書いている。

統計学は方法の集積、 言い換えればデータを読み解くツールの積み重ねです。 そのため、 ともすれば学生は試験に出ることだけをひたすら覚え、 社会人は必要な手法だけを習得する、 ということになりがちで、 全体を見渡すことができません。

まあ大局観ということですな。 ここで言われる「学生」「社会人」のようではやはり具合が悪い。 ところで、 ここに「大学教員」は入るのだろうか。 ううむ。 これ以上書くのはやめよう。


2010/04/16

新学期がはじまりました。 新たに100人を超える学生が入学してきました。 授業もはじまってます (私もさっきまで授業だったのだが、 まだ本調子でない。 次回はもっと頑張ります)。

この学校は昨年度末に理事長選挙関係でマスコミを賑わしたりして、 「おいおい。何やってんだ」という感じで、 ジタバタアタフタした。 やっと新学期になって「さてさて。 気分をかえて、 やんなきゃね」と思っていたら、 新型インフルエンザ罹患者が学生のあいだにでてしまった。 またぞろ、 ジタバタだ。 間の悪いことに、 学校が存在する和歌山市が新型インフルエンザ「対策」本部を「警戒」本部に変更した翌日に、 罹患者がでてしまった。 どうもご迷惑をおかけします。 こればっかりは、 基本的には、 人事の事柄ではなく自然の事柄なので、 ご容赦ください。


2010/03/25

「ほんの短いあいだ」って、ほんとに短いなあ。

それはさておき、『日経サイエンス』の5月号をさっき購入して、 パラパラめくっていたら、思わず全部読み通してしまった記事を紹介しよう。 ブリティッシュ・コロンビア大学のB. B. フィンレイという、 微生物などを研究している人の論文(戸邉亨訳) 「細胞ハイジャック 病原菌の巧みな戦略」。 病原菌の立場に立って、その生活から、 あるいはその生き残り戦略から、病気を考えている。 おもしろい。 いくつか引用しておきましょう。

【培地・培養細胞・実験動物などを用いるこれまでの研究は…竹山による補足】感染時に 病原菌と宿主である人体との間で起こるやりとりを事実上無視している。 実際、 病原菌は試験管で培養した時と感染した宿主の中で増殖した時とで全く異なる行動を とる場合があることがこの20年でわかってきた。
多くの病原菌は、 宿主細胞のシグナル伝達系や免疫応答をプログラムし直すための分泌装置を 進化させてきた。
分泌機能はヒトに病気を起こすためではなく、 土の中にいる単細胞生物からの攻撃を回避するために進化したのだろう。

この「分泌装置」って、 すごくおもしろいなあ。 だけど、 実際に病気になると困るから、 仲良くしてね。 (うん? 「仲良く」? オザワとか言うカンジチョーが、先日言ってたな。 テレビのニュースで見たとき、 気持ち悪かった。)


2010/03/09

今回の入学試験からこの学校は後期日程をやらなくなった。 本日行われている前期日程入学試験の合格発表で、ひとつの区切りがつく。 まだまだ区切りでしかないのだが、「ほんまに疲れた」。 「この年齢で終日門番するのは酷だぞ」。

新学期がはじまるまでのほんの短いあいだ、少しでも勉強しなくちゃ。


2010/01/29

すぐ下に書いた『物理学天才列伝』に関する文章で「教科書」に言及した。 実はそのとき「最近読んだ新聞に、 たしかこれに関連するような記事があったなあ」と 思っていたのだが、 思い出せなかった(記憶力の衰え甚だし)。 今朝、 新聞の山を捜してみたらありました。

毎日新聞1月26日の朝刊、 一部では話題になっている「理系白書」のシリーズだった。 九州大学の助教をやっている正岡重行という若い研究者へのインタビュー記事。

「先生が好きで、 これだけは勉強した」という化学1教科の試験で同志社大に推薦入学。 ここで学問に目覚めた。 「教科書に書いてあることは10年くらいでどんどん塗り替わるもので、 その新しいことを作り出すのが大学だと分かった。 世の中にない現象や物質を見つけたかった」

二番目の発言ね。 ま、 こういうことですな。 なお、 こういう経験をしたことが皆無でも、 医者にはなれるだろうから、 諸君、 ご安心召されよ。

「先生が好きで」っていうのは、 よくあることですな。 それ自体としてはいささか情けないところもあるんじゃないかと思うけど。 それにしても、 きわめて近い時点の新聞記事を充分に思い出せないようでは、 好きになってもらえる先生たりえないなあ。


2010/01/27

後期の試験期間中です。

仕事のあいま、 昨年12月に出版された、 ウィリアム・H・クロッパー『物理学天才列伝』 (水谷淳訳、講談社ブルーバックス)を読んでいる。 気分転換用。 熱力学を扱った部分のクラウジウスのところに、 こんな文章がある。201ページ以下。

科学者が常に客観的だとは限らないが、 論争 ── というより異議を唱える人物 ── はやがて姿を消し、 有効な見解へと収束していくものだ。 そうなったとき (科学史の法則として必ずそうなる) に生き残るのは、 教科書、 つまりその分野に関する「標準的」な解釈に他ならない。 何人かの名前は理論や方程式や単位の名として生き延びるが、 その人間としての物語、 主張、 口論は色あせていく。 それは好都合だとも言えよう。 学生にとって、 事あるごとに歴史上の誤解と対面させられたら、 科学の形式的な構造を理解するのは容易ではないだろう。 歴史上の展開のいくつかは、 それが誤解甚だしいものであれば ── テートの本はその資格があるだろう ── 、 勉強する必要はない。 しかし人間物語のもう一つの側面として、 創造性が間違ったほうではなく正しいほうへ向かったいきさつは、 記憶に残しておくべきだ。

つっこみどころ満載の文章である。 おっと、 上品に言うと、 検討に値する事柄が複数織り込まれた文章である。

たとえば、 「有効な見解へと」「科学史の法則として」「収束していくものだ」とある。 さしあたり、 実際に収束していると認めるとして、 果たして何故そうなるのだろうか? これを説明するのは、 ものすごおぉく、 難しい。 私にはうまく説明できません。

「教科書」については、 授業で何度も、 「教科書というのは、 今のところここまでしか明らかになっていないということを、 この上なく整理のゆきとどいた、 洗練された仕方で書いてある本なのだ」 と言っている。 そういう本でないと初心者が勉強するのに不便。 たしかに、 「事あるごとに歴史上の誤解と対面させられたら、 科学の形式的な構造を理解するのは容易ではないだろう」。 それゆえ、 きちんとした教科書を用いて、 勉強するのがよい。 けれども、 これによって形成された理解は、 「科学の形式的な構造」、 しかも静態として構成された、 構造の理解だろう。 ということは、 科学の実質的で動的なありさまの理解ではない。 これを平たく言うと、 科学の営みの理解ではない。 どぎつく言うと、 教科書を勉強してテストで高得点をとったとしても、 科学を知っているわけではないし、 分かっているわけでもない。 科学を行なっているわけでもない。

哲学の授業で私がやっているのは、 こういう点に関係するわけ。

「人間物語」とある (原書を所有していないので、 もとの表現は分からない。 human storyなのかな?)。 これはこれでよいのだが、 この表現で充分に捉え切れるわけでもない。 あ、 人名としてクラウジウスとテートがあがってますが、 知らない人は自分で調べてください。 あるいは、 この本を読んでください。 楽しい本ですよ。


2010/01/18

センター試験が、 少なくとも私たちの担当した会場については大過なく、 終わった。 今回は一日めの試験監督を担当した。 ほとんど立ちっ放しだったので、 脚と腰が疲労している。 それはさておき……

英語リスニングという試験科目のときのこと。 この試験は、 ICプレーヤに記録された音声をイヤフォンで聴き取りつつ解答していく。 試験開始の合図とともに、 受験生ひとりひとりがプレーヤのボタンを押して再生を開始し、 解答していく。 解答が開始されると、 試験室は本当に静かになる。 監督している私たちもできるかぎり動かず、 極力、 音を出さないようにする。 会場全体が本当に静まりかえる。 けれど、 実は、 ずっと聞こえ続ける音がある。

鉛筆を走らせる音ではない (走らせていない受験生もいるからね)。 それは、 イヤフォンが振動して外にもれ聞こえる音である。 再生開始が完全に同時ではなく、 微妙にずれるので、 リズムや音色をとりどりに微細に変化させつつ、 再生が終了するまでほぼ途切れなく、 その音は試験室に小さく響き続ける。 試験室のそこここで場所的なヴァリエーションもあり、 微妙な変化の展開は、 なかなかの聞き物である。

「なんだか、初夏の夜に、遠くの広い稲田から、 蛙たちの歌が低く聞こえてくるみたいだな」と今回は思った。


2010/01/06

あけました。おめでとうございます。

年末年始のあいだに新型インフルエンザに感染した学生が数名いるようで、 みんな気をつけてください。

私は12月中旬に小さい依頼原稿を仕上げて、 そのあとは学校と家庭の雑用であっというまに年が明け、 疲れてます。 何かおもしろい本を紹介しようかと思うのだが、 今回はパス。 そのかわりといっては何だが、 LPレコードを聴ける環境を数日間でばたばたと、 おそらく5年ぶりくらいに復活させた(もちろん@HOMEです)。 ギーゼキングのピアノの音を久しぶりに聴いた。 それから、 イタリア弦楽四重奏団によるドビュッシーとラヴェルの一枚はいいレコードだ。


2009/10/13
すぐ下に紹介したサンドラ・ヘンペルの本に関する情報。 この本の原書はこれまた下に書いてある通りなんだが、 著者には他にどんな著作があるのだろうと、 Web上で調べていたら、 次のようなものが見つかった。

Sandra Hempel, The Strange Case of the Broad Street Pump; John Snow and the Mystery of Cholera. University of California Press, 2007.
「増補改訂版かな?」「題名が違うから別の本か?」なんて思って注文して、 現物を入手したのだが、 なんと中身は全部同じ! 題名だけ変えてやがる! おんなじ本を二冊所有ということになってしまった。

こういう商売はやめてくれんかなあ。 いや、 リフトンの本もこれと同様か。 ううむ、私の調査不足か。


2009/07/23
すでに定評のある、 いい本の翻訳が出版された。 みんな読みなさい。

サンドラ・ヘンペル著『医学探偵ジョン・スノウ ─ コレラとブロード・ストリートの井戸の謎』、 日本評論社。
原書は、 Sandra Hempel, The Medical Detective; John Snow and the Mystery of Cholera. 2006.
今年の後期の哲学の授業では具体例としてコレラを用いるから、 スノウも当然登場する。 タイミングとしてとてもいい。 もちろん、 授業ではスノウ以外の話もたくさんする予定だけれど、 読んでおくと、 成績判定に有利かもね(半分以上は冗談です)。

それから、 夏なので、 同じく最近出版された、 次の本も紹介します。

ロバート・J・リフトン著 『ヒロシマを生き抜く ─ 精神史的考察』 (上・下)、 岩波現代文庫 226, 227.
原書は Robert Jay Lifton, Death in Life; Survivors of Hiroshima.
この翻訳はかつて『死の中の生命』という題名で公刊されていたのだが、 それが衣替えして再びお目見えした。 編集が変更されているのがちょっと残念だけど、 読む価値は変わらない。 みんな、 是非とも読みなさい。


2009/06/11
うわ! ここに書くのは久しぶりなんだな。 そりゃあまあ、 殺人的なキャンパス引越し作業があいだにはさまっているから、 仕方ない。 ほんまに今回の引越しのせいで、 寿命が何年か短くなった。 この学校はからだに悪い。

閑話休題。 次に記す本、 みんな読みなさい。

マルコ・イアコボーニ著 『ミラーニューロンの発見 ─ 「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学』、 塩原通緒訳、 ハワカワ親書。

原書はMarco Iacoboni, Mirroring People; The New Science of How We Connect with Others. 2008.である。 邦訳の題名は内容を伝えていない。 それはともかく、 茂木なんとかいう奴の書いたものなんか放り投げて、 こっちを読むべし。


2008/09/03
とうとう9月になって、 情無い話だが、 とても疲れている。 夏休み中ずっと原稿を書きづめだった、 と言ってもよいくらいなので、 心身ともにちょっと低調。

そういうときには、 仕事のあいまに少し目をさらすだけの、 積読しておいた本や、 かつて読んだ本が、 なかなかの気分転換になる。 というわけで、 日本でもすでに一部で有名な本から紹介します。 ロバート・N・プロクターの『健康帝国ナチス』です。 宮崎尊の訳。 原書は、 Robert N. Proctor: The Nazi War on Cancer.です。 直訳すれば『ナチスのガン戦争』くらいですな。

タバコに関する疫学研究で、 世界で初めて「対照研究」をおこなったミューラーがその後どうなったのかはわかっていない。 戦後の消息がまったく不明であることから、 三〇歳の誕生日も待たずに戦線で死亡した可能性が高い。 この忘れられた若き医師 --- タバコ科学界のガロア --- が、 なぜ、 いかにしてタバコ疫学の草分けとなり、 しかも忘れられてしまったのか、 ぜひ知りたいところである。
たしかにその先駆的な論文は、 一九五〇年代になって、 イギリスのリチャード・ドールやA・ブラッドフォード・ヒル、 またアメリカのアーンスト・ワインダーやエヴァーツ・グレアムが、 肺ガンとタバコの関連性を確認しはじめると、 時折引用されることもあった。 アメリカ公衆衛生局の一九六四年の報告は、 シャイラー、 シェーニガーとならんでミューラーの論文も引用されている。
しかしあまり認識されていないのは、 ドイツの一流の医師たちが一九四〇年代以前に --- イギリスやアメリカの医師たちより一〇年以上前に --- 喫煙に中毒性があり、 肺ガンの主因となると確信していたという事実である。 一九三五年フリッツ・リキントはドイツの一流医療週刊紙に、 タバコが気管支ガンの増加に大きな役割を果たしていることは「もはや何の疑いもない」と書いているし、 当時有数の精神科医の一人 (恐怖の「安楽死計画」の考案者としてもよく知られる) マックス・ド・クリニは、 一九四一年、 肺ガンの爆発的増加の背後にタバコがあるのかという問いには、 「今では然り、 と答えうる」と述べている。 こうした結論はナチスとともに消滅し、 戦後何年もしてようやく英米の科学者主導で議論が再開されるのである。
(p.238)

もう一節。

しかし、 ヒトラーのタバコ嫌いはナチスのタバコ戦争の一要素にすぎない。 むしろ重要なのは、 公衆衛生の文献にも何度となく繰り返されたように、 ドイツ民族の生産能力と生殖能力だった。 タバコはアルコール同様、 国民を弱体化するものだったのである。 仕事でも、 学校でも、 スポーツでも、 寝室でも、 産院でも、 そして戦場でも (一九三〇年代にドイツ軍がおこなった実験では、 喫煙によって兵士の射撃技術および長距離行軍能力が低下することが判明している)。 従来の徳育面からの批判にくわえて、 医学面からの批判が高まっていった。 もちろん徳育的要素は失われたわけではなく、 身体の清潔、 人種衛生、 仕事の能率、 「健康の義務」といったナチス時代の標語により強化されていった。 「健康はすべてに勝る」は ナチスのイデオロギーを最もよくあらわす標語のひとつなのである。
(p.264f.)

この本、ほんまにおもしろいよ。


2008/07/29
授業でFlorence Nightingaleの話をしたときに、 デイヴィッド・サルツブルグ『統計学を拓いた異才たち』(竹内恵行・熊谷悦生訳、日本経済新聞社)という本を紹介した。 そのなかから一節(邦訳94ページ)。

高校の代数では、 誰かがすでに数式を解いてしまっている。 教師はそれらを知っているか、 教科書の教師用指導書のなかに見つけることができる。 誰も数式に置き換える方法を知らない文章題があると考えてみてほしい。 その文章題のいくつかの情報は余分だったり、 使うべきでなかったりもする。 決め手となる情報がしばしばなかったり、 教科書には以前に解かれた類似例がなかったりもする。 現実問題に統計モデルを適用しようとするのはこういうことなのである。 ブリスが殺虫剤実験に確率分布の新しい数学的アイデアを適用させようとしたときの状況は、 まさにこれだったのだ。

ううむ。 「誰も数式に置き換える方法を知らない文章題」……。 いいなあ。 こういうのを聞くとゾクゾクする。 (ブリスという人名については自分で調べてください。)

余計なことだけど、 この本の著者の名前、 David Salsburgと綴る。 「サルツブルク」でいいのかな? 英語人名辞典、 いまどこにあるか分からないな。 ま、人名の発音は最終的には本人に尋ねるしかないんだけど。

2008/07/30
気が向いたので、上に紹介した部分の原文も記しておきます。
David Salsburg, The Lady Tasting Tea. 2001, p.75f.

In high school algebra, someone had already worked out the formulas. The teacher knew them or could find them in the teacher's manual for the textbook. Imagine a word problem where nobody knows how to turn it into a formula, where some of the information is redundant and should not be used, where crucial information is often missing, and where there is no similar example worked out earlier in the textbook. This is what happens when one tries to apply statistical models to real-life problems. This was the situation when Chester Bliss tried to adapt the new mathematical ideas of probability distributions to his experiments with insecticides.

2008/06/02
先月、 岩波文庫から、 シュレーディンガー(いわゆる「シュレ猫」で有名なあの人)の 『生命とは何か --- 物理的にみた生細胞』が出た。 岡小天・鎮目恭夫訳。 これは以前は岩波新書だったのだが、 文庫化された(新書の方ももっているはずだが、 どこにあることやら、 分からない)。

この本の内容については記さないとして、 この本を書くにあたってのシュレーディンガーの心持ちについて。 「まえがき」はこんなふうにはじまる。

そもそも科学者というものは、 或る一定の問題については、 完全な徹底した知識を身につけているものだと考えられています。 したがって、 科学者は自分が十分に通暁していない問題については、 ものを書かないものだと世間では思っています。 このようなことが科学者たるものの侵してはならない掟として通っています。 このたびは、 私はとにかくこの身分を放棄して、 この身分につきまとう掟から自由になることを許していただきたいと思います。 これに対する私の言いわけは次の通りです。
われわれは、 すべてのものを包括する統一的な知識を求めようとする熱望を、 先祖代々承け継いできました。 学問の最高の殿堂に与えられた総合大学(university)の名は、 古代から幾世紀もの時代を通じて、 総合的な姿こそ、 十全の信頼を与えらるべき唯一のものであったことを、 われわれの心に銘記させます。 しかし、 過ぐる一〇〇余年の間に、 学問の多種多様の分枝は、 その広さにおいても、 またその深さにおいてもまずまず拡がり、 われわれは奇妙な矛盾に直面するに至りました。 われわれは、 今までに知られてきたことの総和を結び合わせて一つの全一的なものにするに足りる信頼できる素材が、 今ようやく獲得されはじめたばかりであることを、 はっきりと感じます。 ところが一方では、 ただ一人の人間の頭脳が、 学問全体の中の一つの小さな専門領域以上のものを十分に支配することは、 ほとんど不可能に近くなってしまったのです。

いやあ、これくらいでなくちゃね。 チャンドラセカールという現代の物理学者も言ってたな。 たとえばニュートンは、 本を書いた。 本を書くべきであると考えた。 ところが、 現在の科学者は、 本を書かない。 書くべきであるとも考えない。 書くのは基本的に事実報告である論文のみ。

もちろん、 シュレーディンガーのこういう心持ち、 こういう壮挙は、 だいぶ前にここに紹介したオルテガ・イ・ガセットのテキストと微妙な関係に立ちうるんだけどね。


2008/03/18
しばらく前、 レーヴィの本から一節を紹介したとき、 同じくレーヴィの『溺れるものと救われるもの』 (竹山博英訳、朝日新聞社)は積読になっていると記した。 ここ数日、 仕事関係の文献から休憩時間をとっているときに、 これを少しづつ読んでいる。 まだ途中だけど、 ちょっと紹介。 二つとも序文に記されている文章です。

意図的な無知と恐怖が、 ラーゲルのおぞましい残虐さを証言したかもしれない多くの「市民」の口をつぐませることになった。 特に戦争の末期には、 ラーゲルは拡大した複雑なシステムを形成し、 ドイツの日常生活の中に深く組み込まれていた。 「強制収容所という宇宙」という言い方には正当な理由があるのだが、 それは閉ざされた宇宙ではなかった。 大小の企業、 農場、 兵器工場は強制収容所が供給するほぼ無料の労働力から利益を引き出していた。 いくつかの企業はSSの非人間的な(そして愚かな)原則を受け入れ、 囚人を情け容赦なく搾取していた。 その原則によると、 囚人はみな同じで、 もし労働で死ねばすぐに取り替えることができた。 …(竹山による中略)… 複合焼却炉自体もドイツの会社によって設計され、 製造され、 取り付けられ、 テストされていた。 それはヴィスバーデンのトプ社で、 一九七五年ごろまで一貫して活動を続けていた (そこは民生用の焼却炉を製造しており、 その社名を変えることが適切だとは思っていなかった)。 これらの会社の従業員が、 商品や設備に対するSS司令部の注文の量的質的増大について、 その意味を理解しなかったとは考え難い。 同じような論議は、 アウシュヴィッツのガス室に用いられた毒ガスの供給に関してもなすことができるし、 実際になされた。 その製品とはシアン化水素酸であったが、 長年船倉の消毒に用いられていた。 しかし一九四二年から注文が急激に増大したことは見過ごされるはずがなかった。 それに対しては必ずや疑問が湧いただろうし、 実際に疑問を持ったはずなのだが、 その疑問は、 恐怖、 利潤獲得の欲望、 そして前に述べた自発的な盲目性や愚かさによって、 窒息させられてしまった。 またある場合には(おそらくわずかだったろうが)、 狂信的なナチへの忠誠心によって押し殺されたのだった。
初めておどしつけ、 侮辱し、 殴りつけてきたのはSSではなく、 他の囚人たち、 つまり「同僚たち」だった。 彼らは新参者が新たに身につけた服と同じ縞模様の囚人服を身にまとった、 正体不明の人々だったのである。

まだ読了していないし、 コメントはしません。


2008/03/13
ここしばらく、 かつて日本が朝貢していた地域で生産された冷凍食品に毒物が混入していた件で、 騒ぎになっている。 少なくともマスコミでは、 ずっと取り上げている。 それにのっかって色んな書籍が新たに出版されたりしている。 で、 こんなテキストを思い出した。 ミシェル・ウルベックの小説『素粒子』の一節(IIの15節)。 野崎歓の訳です。

「ぼくは何の役にも立っていないんだ。」ブリュノは諦めたような口調で言った。 「豚を飼育することもできない。 ソーセージの作り方も、 フォークの作り方も、 携帯電話の作り方もからきし分からない。 身のまわりにあって、 自分でも使ったり、 食べたりしているものを自分で作り出すことができないんだ。 製造過程を理解することすらできない。 もし製造業がストップして、 専門のエンジニアや技術者がいなくなってしまうようなことがあれば、 ぼくには何一つ再スタートさせられない。 経済、 産業部門の外にいるぼくには、 自分自身の命を永らえさせることさえできないだろう。 食べる物、 着る物をどうやって手に入れるか、 雨風をどうやってしのげばいいかもわからないんだから。 ぼくの個人的な技術レベルは、 ネアンデルタール人にはるかに劣るものなんだ。 周囲の社会に完全に依存しきっているのに、 社会にとってはほぼ無用の存在。

『生活図鑑』(福音館書店)を購入して、 よく読むことからはじめてみたらどうかしら。
2008/03/14 追記
ウルベックの小説の出版社は筑摩書房です。ちくま文庫にもなってます。
2008/03/17 追記
ありゃま! ウルベックと書いてた。 間違えました。 ウェルベックです。


2008/01/23
このSiteにおいては何の脈絡もないのだが、 気が向いたので、 カントの著作『実用的見地における人間学』 (Anthropologie in pragmatischer Hinsicht. 1798)から一節。 新しいカント全集(岩波書店)の渋谷治美さんの訳 (Akademie-Ausgabe VII. 210)。

学者は家事全般については通常妻に任せきりで、 自分は喜んで未成育状態に甘んじているものである。 本に埋もれていたどこかの学者は、 召使いが駆け込んできて、 どこそこの部屋が火事ですと叫んだとき、 「そういうことは家内の仕事だということぐらいお前も知っているだろうに」と返事したそうだ。

はっきり言って、 とてもよくある、 あるいは定型化した学者像だが、 カントのこの台詞をきいて、 講堂は笑いに満ちただろうな (『人間学』は講義録がもとになっています)。 カントは生涯独身だったから、 一種の皮肉も含まれているし。

なお、 私が学者であるとしてですが、 私はこんな学者ではありません。 家事全般は行ないます。 むしろ、 好んで行ないます。 「マルタとマリア」で言えば、 エックハルトが読解したような「マルタ」が、 私の目指すところです。


2008/01/09
昨年12月末に、 ある研究会で知り合いと話していて、 「そんじゃあ、今度ここに掲載するから、読んでみて」、 と約束したので、 二つ紹介。

一つめは、 もう何年も前に読んだテキストで、 小林繁『したい放題 --- ある解剖学者の我流自画像』。 野球選手にこういう名前の人がいたが、 別人です。 著者は名古屋大学医学部の解剖学教授だった人。 故人。 この本自体が遺稿集。 入院中の著者が記した文章の一節。

妻とさっそく駆けつけた次男の二人を付き添いに、 名古屋大学医学部内の私のオフィスへ外出。 サイドビジネスに懇望されたある大学の期末試験の判定の後始末のためである。 前日ベッドの上でまる一日を要した採点の結果を集計して所定の用紙に得点を記入する。不合格者を出さないように、 また基本の得点が成績に反映するように補正する。 印鑑をついて報告書を完成するまでに、 二時間以上もかかっていた。

病身を押して仕事をしているのは感心するが、 「不合格者を出さないように」という文言には苦笑した。

二つめは、 つい最近ひょんなことから入手したテキスト。 おそらく2006年の春に、 徳島大学の大学生協が医学部新入生のために作成したとおぼしきパンフレットに載っている。 著者は「分子予防医学分野、中堀豊先生」となっている。 「学生」と「生徒」という二つの言葉の相違(『広辞苑』まで引いている)が話題になっていて、 こう記されている。

…(略)…
徳島大学では公式に「生徒」というらしい。
9年間自分が教えてきたのが「生徒」だということに気づかなかったことについての不明を恥じる。
…(中略)…
「学生」と「生徒」とでは自ずから教え方が違う。
学生なら好きな勉強を勝手にしてくれればよいし、 試験に落第させて人生を左右するような失礼はしないが、 生徒であるならこちらが指定するものを勉強してもらわなくてはならぬ。 また、 レベルまで達していなければやり直してもらわなければならぬ。 ということで、 平成18年度から授業に対する姿勢が変りますので、 先輩の言うことを参考にしないように。

共通点は明白だけど、 一つめよりは少しましかな。 こんなこと、 事柄自体としてはかかわりたくもないなあ、私は。


2007/12/03
以前(2007/10/01)言及した光文社古典新訳文庫の「カラキョー」はいよいよ盛り上がっているようで、 翻訳者が「続編」まで出版している。 ある意味、 慶賀すべきことである。 残念ながら、 私はまだこの「カラキョー」を読んでいない。 購入するなら全巻一度に購入したいのだが、 財布の中身が乏しくて、 ちょっとつらい。

ということで(って、どういうことだよ?)、 最近読み直した本から。

ページ数を記すのを忘れていた。それを補うついでに増補しました(2007/12/04)。

絞首台の下ではSSたちが、 私たちの通るのを無関心に眺めていた。 彼らの仕事は終わった。 しかも大成功だった。 もうロシア軍がやってくるはずだ。 だが私たちの中にはもう強い男はいない。 最後の一人は頭上にぶら下がっている。 残りのものたちには絞首索など必要ない。 もうロシア軍が着くはずだ。 だが飼いならされ、 破壊された私たちしか見いだせないだろう。 待ち受けている衰弱死にふさわしいこの私たちしか。

人間を破壊するのは、 創造するのと同じくらい難しい。 たやすくはなかったし、 時間もかかった。 だが、 きみたちドイツ人はそれに成功した。 きみたちに見つめられて私たちは言いなりになる。 私たちの何を恐れるのだ? 反乱は起こさないし、 挑戦の言葉を吐くこともないし、 裁きの視線さえ投げつけられないのだから。

アルベルトと私はバラックに入っても、 顔を見あわすことができなかった。 あの男は頑丈であったに違いなかった。 私たちを打ち砕いたこの条件に屈しなかったのだから、 私たちとは別の金属でできていたに違いなかった。 (p.184f.)

プリーモ・レーヴィの『アウシュヴィッツは終わらない --- あるイタリア人生存者の考察』の一節です。 竹山博英の訳、朝日選書。

原題を直訳すれば「これが人間か」であるのは、 よく知られていることでしょう。 こっちの訳の方がずっといいと思うんだけど。 しばらく前にNHKでレーヴィの番組を放送していて、 それを見た記憶がある。 それで、 また買って読んでみる気になったのかもしれない。 簡単にコメントできるようなテキストではないので、 コメントはしません。 レーヴィの『溺れるものと救われるもの』も同時に購入したのだが、 こっちはまだ積読のままだな。


2007/11/05
学生の中にも知っている人はいるが、 私がこれまでいわゆる「専門分野」として来たのはカントという人の思想である。 最近読み直した彼のテキストから、 「へえ、これ、やっぱちょっといいなあ」と感じたものを紹介しましょう。

日本では『フンク君の早世を悼んで』と呼びならわされている、 カントが30歳代半ばを越えた頃の小文です。 大学教員としてのカントが、 かつて自分のところで学んだフンクという若者が自分より先に逝った際に書かれました。南山大学の加藤泰史さんの訳です。

ひとびとが仕事と気晴らしのくり返しの合間にときどきほんのわずかな時間でもまじめに考えることを習慣にして、 たとえば私たちの善意が共に生活する市民のひとたちの運命に対して無力であることを示すような日常的実例に思いを寄せるとすれば、 ひとびとがばか騒ぎをするということもおそらくほとんどなくなって、 その代わりにむしろおだやかで静かな歓びに満ちたこころがひとびとにもたらされることになりましょう。 そうしたこころにとっては予期されない偶然などというものはもはや存在しませんし、 またふつうは偉大で重要であるとみなされているものが無価値にすぎないということにひとり静かに思いをめぐらしますと、 静かな憂鬱といった繊細な感情から高貴な心情があふれてくるわけで、 だからそうした繊細な感情でさえ軽薄なひとのばか騒ぎや愚かなひとの高笑い以上のほんとうの幸福を含んでいるものといえましょう。(Akademie-Ausgabe, II. 39)
憂鬱の感情は私たちの一般的感情にとてもふさわしいものなのですが、 だからこそかつて古代ローマ人の集会で大喝采をもって受け止められた言葉がこの感情をとおしてこころの内奥からこう語りかけてくるのです。 「私は人間だ。そして、人間に起こることは私にも起こるのである」。(Akademie-Ausgabe, II. 40)
ひとはだれでもこの世界におけるみずからの使命に対してそれぞれの計画を立てております。 …(中略)… ほんとうの運命は私たちをまったく別の道へと導いていきます。 私たちに実際に与えられております運命が、 私たちの期待しておりましたものと似ていることはほとんどありません。 したがって、 私たちは人生の歩みを重ねるたびにみずからの期待が裏切られていくことに気がつくわけです。 しかし、 それにもかかわらず想像力は依然としてはたらきつづけて、 いつもまだ遠くにあるように見える死が突然やってきてお芝居全体の幕をおろしてしまうまで、 飽きもせずに新しい計画の見取り図を描いております。 (Akademie-Ausgabe, II. 41)

「私は人間だ」以下の台詞は、 私も倫理学の講義で確か紹介した、 テレンティウスの作品に見られるものだが、 カントの引用は正確ではない。 また、 三〇代半ばの人間が記したものとしては、 ちょっと老成にすぎるかな、 ちょっと無理してるかな、 と感じるところもある。 そういう年齢だからそんな感じをあたえる文章になるとも考えられるけど。 それでも、 「この世界における人間」を見る一つの視点として興趣をそそる文章である。 unsere allegemeine Empfindungとしてふさわしいdie sanfte Schwermuthあるいはein schwermüthiges Gefühlというところとかね。


2007/10/01
ほんの少し、 夏が終わりかけているように思われる。

光文社という出版社から出ている「古典新訳」文庫が、 かなり評判になっている。 私も数冊を購って読んでいる。 正直言って、 「そんなに評判になるほどいいかなあ」という気持ちの方が強いのだが、 決して悪くはない。 精神分析で有名なフロイトの『文化への不満』が、 その一冊に収められている (書名は『幻想の未来/文化への不満』、訳者は中山元です)。 この論文は重要なので、 これが文庫で入手できるようになったのはめでたい。 光文社編集部、偉い!

ちょっとだけ紹介(p.150)。

このように人間が幸福になる可能性というものは、 わたしたちの心的な構成のために制約をうけているのだ。 ところが不幸を経験するのは、 はるかにたやすいことなのである。 こうした苦難の原因には三種類のものがある。 第一の原因は自分の身体である。 わたしたちはやがて死んで姿を消す運命にあり、 痛みや不安は警告信号の役割をはたすものとして、 不可欠なのである。 第二の原因は外界であり、 圧倒的で、 無慈悲で、 破壊的な力をもって人間を襲うのである。 第三の原因は他者との関係であり、 この最後の原因から生まれる苦難は、 ほかの二つの原因のもたらす苦難よりもつらいものだろう。 他人との関係による苦難は、 ほかの原因による苦難に劣らず宿命的で避けがたいものであるのに、 わたしたちはこれを何か余分な苦難ででもあるかのように考える傾向があるのである。

ちなみに、この文庫のおかげらしいのだが、 「からきょう」あるいは「カラキョー」という言葉が一部で流行しているらしい。 すなわち正しく言うと『カラマーゾフの兄弟』。 ううむ、 すごい省略。 私なんかは「そういう略語はたのむからやめてくれ!」と言いたくなる。 それでも、 せっかくだからこの文庫の翻訳でまた読んでみようかな。


2007/09/03
まだまだとても暑い。 夏休み中も極めて暑かった。 日焼けして皮膚がむけたのは何年ぶりだろう? 焼けた皮膚の色とは逆の「白」に関連する(こりゃ強引だな)書物を紹介。

建築に興味がある人なら必ず名前を知っている、 ル・コルビュジェ(1887--1965)の著作が岩波文庫から最近でました。 『伽藍が白かったとき』(生田勉/樋口清訳)です。 岩波文庫編集部、偉い!

ちょっとだけ紹介(p.124)。

しかし、 これらの石の壁面はどれもマンハッタンに向かって無数の小さな窓を開けているだけだ。 それらはすべて同じだ。 アメリカ人は窓の形を一つに決めてしまって、 それをアメリカの国土全体に悔いるところなく用いている。 私は、 建築家たちの魂の奥底に後悔を投げこんで、言ってやろう、 「あなた方の事務所がどんなに高く建てられても、 こんな郊外住宅風な窓は人を馬鹿にしていますよ。 このためにあなた方は失敗です。 高く建てることによって得た空間 ─ この財宝 ─ それをあなた方はお使いにならない、 自分のものとされない。 あなた方は失敗です! あなた方のところにいると、 穴蔵にいるようです!」

私の仕事部屋なんか、 コルビュジェに言わせたら「穴蔵の極み」だな。


2007/07/06
ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1888─1955)というスペイン生まれの思想家に『大衆の反逆』という著作があります。 その一節(第12章)から紹介します。 白水社から出ている桑名一博の訳です。

自然に関する新事実を発見した研究者は、 当然ながら自分のうちに支配感や自信を感じるはずである。 彼は表面的な判断から、 自分自身を「ものを知っている人間」だと考えるだろう。 事実また、 彼が持っている知識の断片は、 彼が持たない他の断片と一緒になれば真の知識を構成するものである。 これが、 二十世紀の初頭に極端に達した専門家の精神構造である。 専門家は自分が研究している宇宙の微々たる部分については実によく「知っている」が、それ以外のことについてはまったく何も知らないのである。

こうした専門家こそ、 私が今までさまざまな側面と様相から明らかにしようとしてきた新しい奇妙な人間のみごとな一例である。 私は先に、 こうした人間形成は歴史に先例がないと言っておいた。 専門家は、 この人間の新種をきわめてはっきりと具体化してくれ、 この新種の持つ根本的な新しさのいっさいを見せてくれる。 なぜならば、 以前は人間を単純に、 知識のある者と無知なる者、 多少とも知識のある者と多少とも無知なる者とに分けることができた。 ところが専門家は、 その二つの範疇のどちらにも属させることができないからだ。 専門家は知者ではない。 というのは、 自分の専門以外のことをまったく何も知らないからである。 と言って、 無知な人間でもない。 なぜなら、 彼は「科学者」であり、 彼が専門にしている宇宙の小部分についてはたいへんよく知っているからだ。 われわれは彼を知者・無知者とでも呼ばねばならないだろう。 これはきわめて重要なことである。 というのは、 そうした人間は自分が知らないあらゆる問題についても、 無知者として振舞わずに、 自分の専門分野で知者である人がもつ、 あの傲慢さで臨むことを意味しているからである。

そして事実、 そういうのが専門家の態度である。 彼は政治、 芸術、 社会慣習、 専門外の学問などの分野では、 原始人の態度、 まったく何も知らない者の態度をとるだろうが、 そうした態度を強力に、 欠けるところなく貫くために ──これが矛盾したところだが── 他の分野における専門家の存在を認めないのだ。 文明が彼を専門家に仕立てたとき、 彼を自分の限界内に閉じこもり、 そこで満足しきる人間にしてしまったのだ。 しかし彼の心のうちにあるこの自己満足と、 自分は有能だという感情は、 彼をして専門外の分野をも支配したいという気持に導くだろう。 そこから結果として起こることは、 すぐれた資質をそなえた最高の人間 ──専門家── したがって、 大衆人とは正反対であるはずのものの場合でも、 彼はほとんどすべての場合において、 特別な資格を持たずに大衆人のように振舞うことになる。

以上のことは空論ではない。 今日、 政治、 芸術、 宗教および生や世界に関する一般的諸問題について「科学者」が、 そしてもちろん彼らに続いて医者、 技師、 財政家、 教師等々が、 いかにばかげた考え方や判断や行動をしているかは、 その気さえあれば誰にでも観察できることである。 私がくり返し大衆人の特徴として述べてきた 「他人の言葉に耳を傾けない」、 より高度の審判に従わないという性向は、 ほかでもなく、 部分的資質を持ったこれらの人々においてその極に達しているのだ。 彼らは今日の大衆支配を象徴すると共に、 その大部分を構成している。 そして、 彼らの野蛮性こそがヨーロッパの堕落の最も直接的な原因になっているのである。

ご覧の通り強烈なテキストですが、 鋭敏です。 「専門、専門」とかまびすしい学校なので、 こういうテキストに目を晒すのも一興でしょう。 あんまり年寄りにならないうちに (Early Exposureだね)。