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華岡青洲の乳がん手術

華岡青洲が世界で初めて全身麻酔下で行った外科手術は乳がんの手術でした。欧米ではすでに16世紀頃より乳がんを切除することは行われていましたが、麻酔がありませんので大きな切除ができず、患者さんの痛みもさることながら手術の結果は惨憺たるものでした。日本では乳房は女性の急所であり、これを取り去りされば命にかかわるとされ、乳房は手術適応外の臓器でした。しかし、青洲はドイツ人ハイステルの教科書で西欧では乳がんを摘出していることを知り、さらに牛の角で切り裂かれ乳房を失った女性がまったく元気に治ったことを経験したため、是非とも乳がんを手術で治したいと考えました。妹の於勝が乳がんで亡くなっていたことも、この病気の治療に対する強い思い入れとなっていたかもしません。青洲は長年にわたる実験の成果で通仙散(つうせんさん)が完成した時期に合わせて、全身麻酔による乳がん手術に踏み切ったのです。

藍屋利兵衛の母勘の肖像、青洲の里所蔵

患者さんは大和国五條(現奈良県五條市)の藍屋利兵衛の母で名前を勘といい、齢60歳。左の乳房に一年前からしこりがあり、1804年(文化元年)9月の初旬、青洲の診察を受けた時には左の乳房が全体に赤く腫れていました勘の姉も乳がんで亡くなっており、彼女はこのままほっておくと命のないことを知っており、勇気を持って乳がんの切除に同意しました。青洲は勘の勇気を「予の治術の攻撃を聞くに、皆恐怖して去る。此の婦人は然らず・・・」と記録しているほどです。そして、文化元年10月13日、青洲は世界で初めて全身麻酔下に手術を行い、見事に成功させたのです。手術の方法は青洲が考案したメスやハサミを用いて、がんの部分だけを乳房から摘出するというものでした。現在、乳房部分切除術と呼ばれる方法に相当します。手術後の経過も良く、勘は手術から二十数日ほどで故郷五條へ帰ることができました。この成功を受けて青洲の名は日本中に知れ渡ることとなり、全国から乳がん患者さんが集まってきました。紀州平山で青洲が手術した乳がん患者さんの名前は「乳巌姓名録」という記録に遺されていますが、その数は152名におよびます。

さて、勘のその後はといえば、残念なことに4ヶ月後の1805年2月26日に亡くなっています。これは彼女の肖像でも判るようにすでにがんは乳房全体に広がっており、手術では救えないほど進行していたことが原因と推察され、青洲の手術に問題があったためとはいえないでしょう。弘前大学の松木明知先生は全国二千を超える寺院の過去帳から青洲の手術を受けた乳がん患者さんの死亡日を調査し、152名中33名の経過を明らかにしています。手術後の生存期間は最短8日、最長41年で、平均すると2~3年というものでした。当時のことですから多くの患者さんは勘のように進行乳がんであり、それを考えると青洲の手術の成績は大変素晴らしものであることは間違いありません。

青洲が考案したコロンメス(上)とバヨネット型剪刀(下)、いずれも青洲の里所蔵

青洲の乳がん手術図、
青洲の里所蔵

乳巌姓名録、青洲の里所蔵