技術の善し悪し

1.はじめに

[1-1]  「技術の善し悪し」という題名はおおげさな感じをあたえる.このような題名を冠するのは,哲学を専門とする者の悪い癖かもしれない.しかし,この題名が一種噴飯ものであるとしても,それの語る事柄が本当は重大なものであることは,大方の読者に認めていただけるだろう.以下では,この重大な事柄をいささかなりとも考える試みをしたい.また、本誌の読者の大半は技術者であろうから,その技術者の方々とともに考えてみたい.いやむしろ,技術者の方々に問いを投げかけてみたいのである.

2.クランツバーグの法則

[2-1]  日本ではまだそれほど知られていないようだが,アメリカに,メルヴィン・クランツバーグ(Melvin Kranzberg)という技術史の泰斗がいる.クランツバーグは「技術史協会」(Society for the History of Technology)の創設者であり,雑誌「技術と文化」(Technology and Culture)の編集者であったのだが,そういう履歴のことは措くとしよう.ここで注目し考えてみたいのは,彼が長年にわたる技術史研究を踏まえた上で数年前に提示した興味深い法則,「クランツバーグの法則」(Kranzberg's Law)である.

[2-2]  以下本節では「クランツバーグの法則」を紹介する.ただ,最初に次のことを確認しておかねばならない.クランツバーグによれば,それは「法則」と名づけられてはいるが,命令(commandments)の意味での法則ではない.つまり,それは「かくあるべし」という規範的ないし拘束的意味を持つのではない.まして,クランツバーグ本人がそういう意味を込めて主張しているのでもない.彼によると,それは技術の発展およびその社会変動との相互作用についての研究から帰結した,自明の理(truism)である.つまり,これまでの歴史上のさまざまな技術的営みの実際の姿や発展がどうであったか,それが社会の変動と実際どのようにからみあい影響しあってきたか,こうしたことをつぶさに調査研究してきた結果,「かくある」と言えることを命題化したものである.すなわち「クランツバーグの法則」は,事実そうなっている,事実そうだと言えることを,命題化したものなのである.それゆえ筆者には,技術者の方々とともに考え,技術者の方々に問いを投げかけるための出発点として,この法則を取り上げるのが好適と思われるのである.

[2-3]  それでは,「クランツバーグの法則」を見ていこう.それぞれの命題につづく文章は,クランツバーグ自身のコメントの要点を筆者がまとめたものである.

[2-4]  第一法則…「テクノロジーは,善でもなければ悪でもない.そして,中立でもない」(Technology is neither good nor bad: nor is it neutral.)

[2-5]  この法則が強調するのは,社会的な環境とテクノロジーとの相互作用である.すなわち,テクノロジーの発展は,テクノロジカルな創意工夫やテクノロジーの営為そのものが直接の目標としていることをはるかに超える,環境的,社会的,人間的な帰結をしばしば生む.また,同じテクノロジーでも,異なったコンテクストや異なった環境に導入されると,まったく異なる結果をもたらしうるのである.

[2-6]  第二法則…「発明は必要の母である」(Invention is the mother of necessity.)

[2-7]  第一法則がテクノロジーと社会との相互作用を強調したのに対して,第二法則はテクノロジー内部の要素に関係し,さらにまた,テクノロジー自身の外の,多くの非テクノロジー的な要素にまで関係する.

[2-8]  技術革新というものはどれも,十分に効果的であるためには,技術のさらなる進展を必要とする.多くの重要な技術革新は,それを完全に効果的なものとするために,さらなる発明を必要としてきたのである.

[2-9]  つまり,別の角度から言うと,テクノロジカルな不均衡と名づけうることが起こるのである.ある一つの機械の改良が,それ以前に成立していたバランスを崩してしまい,新たな技術革新によってバランスを取り戻す努力が必要となる,そういう状況が起こるのである.もともとの革新的発明そのものが,そうした必要を産み出すのである.

[2-10]  第三法則…「テクノロジーは,大きいのも小さいのも,ひとまとまりでやってくる」(Technology comes in packages, big and small.)

[2-11]  今日の複雑なメカニズムは,通常,複数のプロセスと構成要素を含んでいる.「ひとまとまり」という言葉の代わりに「システム」という言葉を使えば,もっと正確で適切かもしれない.相互に作用し結合し合った構成要素からなる,密接に連関した構造体がシステムである.もし一つの構成要素が変化すれば,全体が機能しつづけるために,他の部分が変形しなければならないのがシステムである.テクノロジーはどのような規模のものであろうと,そういうものとして,やってくる.言ってみれば,ひとまとまりにドカンと出現するのである.

[2-12]  第四法則…「テクノロジーは,多くの公共的問題において第一の要素であるかもしれないが,テクノロジー政策の決定においては,非テクノロジー的な要因が先行する」(Although technology might be a prime element in many public issues, nontechnical factors take precedence in technology-policy decisions.)

[2-13]  技術者というものは,技術的問題に対する自分たちの解決は軟弱で感傷的な社会的諸問題に基づいてはいないと主張するものだし,自分たちの決定は技術的効率というハードで測定可能な事実によっているのだと誇りもする.しかし,「純粋に技術的な」決定と思えるものも,社会文化的な要素が,なかでも人間的要素(human elements)が含まれているのである.

[2-14]  そうした要素として今日まず挙げられるべきは,いわゆる環境問題に対する人々の関心である.ただし,現実のリスクそのものよりも,人々のリスク感知の問題だというところもある.

[2-15]  第五法則…「すべての歴史が関係する.しかし,テクノロジーの歴史が最も関係する」(All history is relevant, but the history of technology is the most relevant.)

[2-16]  技術史家は,発明者の人格にはじまって,より大きな社会的,経済的,政治的,文化的環境にいたるまで,テクノロジーに影響する外的な力や要因に気づいていなければならない.このことが第五法則を導く.

[2-17]  われわれが一般に抱いている歴史像や現在若い人たちに教えられている歴史には,テクノロジーの要素が欠けている.しかし,テクノロジーはこれまで重大な要因でありつづけてきた.日常生活や労働の世界においてだけそうだったのではない.民主的教育においてもそうであったし,芸術や人文的教養のような領域においてもそうだったのである.

[2-18]  われわれは今や全地球的な問題について,環境の問題や教育の問題や人口の問題について,公共的決定をしなければならない.テクノロジーの歴史はこうした現代の(そして将来の)問題の多くのパラメーターを明らかにしてくれる.それゆえにテクノロジーの歴史が最も関係するのであり,重要なのである.

[2-19]  第六法則…「テクノロジーは,まさしく人間的な活動である.テクノロジーの歴史もそうである」(Technology is a very human activity ― and so is the history of technology.)

[2-20]  人間は,homo faber(作る人)に同時にならなければ,homo sapiens(知恵ある人)にはなれなかった.人間は,テクノロジカル・プロセスの構成要素である.技術的産物にはその後ろに人間の顔がある.

[2-21]  名ヴァイオリニスト,フリッツ・クライスラーが演奏会を終わったあと,一人の女性が彼のところにやって来て「マエストロ,あなたのヴァイオリンはなんて素晴らしい音楽を奏でるのでしょう」と言った.するとクライスラーは自分のヴァイオリンを耳のところに持ってきて,こう答えた.「私にはこのヴァイオリンからは何も音楽は聞こえません」.

3.考察

[3-0-1]  以上がクランツバーグの法則である.どのような感想を持たれたであろうか?  こんなことは分かっている,われわれ技術者はこのように考え,こうしたことを承知したうえで,日々仕事をしていると明言されるであろうか?

[3-0-2]  そう明言し,そう実践している技術者がすべてであれば幸いである.しかしながら,環境問題群への昨今の注目の高まりや現実の諸困難を見れば,そして,日本が「公害」をもって世界に冠たる国であった(過去形を用いたが,それが存在しなくなったとは到底思えない)ことも考えれば,決して安穏とかまえてはいられない.クランツバーグの法則を手がかりに,テクノロジーについて基本的なところを考えてみよう.紙幅の関係もあるので,以下では二点のみを述べる.

3.1 善し悪し・共同体

[3-1-1]  第一法則では,技術の善し悪しについてストレートに,「善でもなければ悪でもない.そして中立でもない」と語られていた.テクノロジーを価値的にどう捉えるかは歴史上にも色々な考え方があった.その悪魔的性格を糾弾する立場もあれば,それによる恩恵とその進歩を高唱する立場もあった(たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチやフランシス・ベーコンには,この両方ともが見られる).そして,その価値中立性を主張する立場もあった.これらの立場は,現在でもその変奏をあちらこちらに聴くことができる.とりわけ,技術者自身によって主張されることしばしばだった(である)のは,テクノロジーの価値中立性を主張する考え方であろう.クランツバーグは,これら三つをどれも否定するわけである.

[3-1-2]  三つすべてを否定してしまったら,わけが分からないではないかと思われるかもしれないが,必ずしもそうではない.クランツバーグがそうできるのは,彼が社会的な環境に注目するからである.彼が強調し,われわれが銘記するべきは,テクノロジーがまぎれもなく共同体において存在することである.「テクノロジーは共同体内にある」.そして,テクノロジーは共同体において,さまざまな帰結を生み出す.テクノロジーの営みは,決して,どこかありもしない中空で行なわれているのではない.

[3-1-3]  技術者自身によって主張されることの多い,価値中立性の考え方は,このことをなおざりにするところがあるのではないか.実際,技術者自身によるテクノロジーの価値中立性の主張は,それを聞く一般の者にただちに無責任の感をあたえる.この感覚を軽視することはできない.そもそも,人間の行為に価値中立性を主張すること自体,かなり疑わしい考え方である.まして,テクノロジーは現に大きな力を有している.その大きな力に携わり,その力を取り扱う者は,そして彼(彼女)らの営みは,まぎれもなくわれわれのすぐ隣に,われわれとの共同体の中に存在するのである.おそらく技術者本人も,その専門技能を離れた場面で,共同体の一構成員としては,自分の隣で行なわれている技術的営みに対して,その力に対して,価値中立性を考えたりはしないだろう.

[3-1-4]  この,テクノロジーは共同体内にあるということを,もう少し具体的な次元で述べてみよう.つまりこういうことである.テクノロジーは,空間的にも時間的にも,必ずある一定の現実の場所を占めるのである.当たり前ではないかと思われるかもしれないが,これもテクノロジーの一特徴である.たとえば相対性理論やビッグ・バン理論なら,それはどこか現実の時空的場所を占めはしない,と言うことができるだろう.しかし,加速器や電波望遠鏡は,そして,水質汚濁防止施設は,必ずやどこか現実の場所を占めるのである.そしてその現実の場所には人々がいて,共同体をなしている.あるいはさらに動植物がいて,人々をも含んだ共同体をなしている.テクノロジーは,そこに,言わばドカンとやってくる(第三法則).そして,さまざまの影響を及ぼす.さらに,いったんドカンとやってきたテクノロジーは,その近辺にあるいは遠く離れたところに,さらなる(新たな)テクノロジーを必要とする(第二法則).

[3-1-5]  人々も動植物もいないところなら問題ないではないか,などという反問には,「地球共同体」という昨今流行の言葉を応答しておこう.テクノロジーは必ず共同体内にあり,そこにおいて行なわれ,そこにおいてさまざまの影響を及ぼし,さまざまの帰結を生む.

[3-1-6]  その帰結については,次のことを思わねばならない.テクノロジーによって善きものが生み出されるとか,悪しきものが生み出されるとか,簡単に割り切って考えることはできないのである.比喩を使って述べよう.剣を作るのは悪であり鋤を作るのは善である,と単純に言うことはできない.また,剣を鋤に鍛え直せば悪から善に転換できるのでもない.鋤だけを作ることが,鋤が鋤として作り出されることが,そのままで悪でありうると考えねばならないのである.化学農薬をこの具体例として考えることができるかもしれない.いやそもそも,農業というそもそも優れてテクノロジカルな営みを,この具体例として考えることができるだろう.もちろん逆に,ためらいが感じられるかもしれないし,筆者には今適当な具体例が思い浮かばないが,剣を作ることも,剣が剣として作り出されることも,そのままで善でありうると考えねばならないのである.

[3-1-7]  このように,テクノロジーを共同体にあるものとして捉えること,クランツバーグの言葉では社会的な環境との相互作用において捉えること(これをしないのは不適切である)によってはじめて,善し悪しを考えることができる.そして,その善し悪しは,簡単に割り切って捉えることはできないのである.

3.2 共同体・人間

[3-2-1]  テクノロジーが共同体内にあるということを踏まえて,さらに別の点を考えてみよう.第四法則では,テクノロジー政策の決定における非テクノロジー的要因の先行が語られていた.非テクノロジー的要因とは社会文化的要素ならびに人間的要素のことであった.さらに,純粋に技術的な決定と思われるものにもそうした要素が含まれていると語られていた.ここでは特に後半に着目して考えたい.

[3-2-2]  この後半のポイントそのものに疑問が呈されるかもしれない.しばしば,「われわれ技術者は,大はテクノロジー政策から小は家庭での一つの機器の購入にいたるまでの,そのような意味でのテクノロジーに関する決定に関与しはしない.そうした決定を下すのは技術者ではなく,政治家や消費者だ」という主張がなされる.純粋にテクノロジー内的な決定は技術者のなす事柄だが,その範囲を越える決定は技術者のなすことではないとし,その意味でのみ,テクノロジーの共同体性を,テクノロジーの営みが共同体と相互依存することを認めるわけである.しかしこれも,テクノロジーがどこかありもしない中空に存在しているかのような言い方であって,テクノロジーが共同体内にあることをわきまえていない.「社会が悪いんだ!」というよくある台詞と似ている.

[3-2-3]  クランツバーグが語る非テクノロジー的要因の先行とはそういうことではない.純粋にテクノロジー内的な決定と思われるものにも,非テクノロジー的な諸要素が先行的に含まれていると言っているのである.クランツバーグは慎重に避けているが,これを尖鋭化して言えば,「純粋にテクノロジー内的な決定は存在しない」ということである.テクノロジーが共同体内にあるということをおろそかにしない限りそうなる.社会文化的要素が指摘されるだけではなく,人間的要素も指摘され,第六法則ではこの要素が明確に語られるが,これも当然のことなのである.

[3-2-4]  もちろん,共同体と人間という要素をわきまえたからといって,そのことが善し悪しの問題にすぐに決着をあたえてくれるわけではない.すでに述べたように,それは言わば出発点である.

[3-2-5]  クランツバーグ自身,環境問題への関心を語っていた.個人としての人間も共同体も,今やこの問題に大いに関心を寄せていると言える.テクノロジーの営みには,こうした非テクノロジー的な諸要素が先行的に含まれているわけである.もっとも,こうした関心(人々が十分にリスク感知したとして抱かれる関心)を満足させる方向にあるテクノロジーが善であり,逆の方向にあるテクノロジーが悪であると簡単に言うことはできない.前者も後者も,善でもなければ悪でもない.そして中立でもないのである.

[3-2-6]  まるで八方ふさがりではないかと言われるかもしれない.実際そうかもしれない.だが,肝心なことは,クランツバーグが指摘してきたテクノロジー・共同体・人間のからみあいを見失ったり,どれかを捨象したりしてはならないということである.そしてさらに,技術者も技術者以外の人々も,テクノロジーの持つ大きな力と,テクノロジーがあらゆる領域で果たす役割とを知り直すこと,もう一度考え直すことである(第五法則).そのような作業はまだ十分に行なわれていないと思われる.それが行なわれてはじめて,善し悪しを見極めるための一歩を進めることができる.

文献
Melvin Kranzberg; One Last Word - Technology and History; "Kranzberg's Laws". in In Context: History and the History of Technology, Essays in Honor of Melvin Kranzberg. ed. by S.H.Cutcliffe and R.C.Post, 1989 Bethlehem, p.244-258


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