「カントにおける体系的統一の理念について」

一、

[1-1]  『純粋理性批判』超越論的弁証論の章節は、弁証論一般を「仮象の論理学」とする文で始められている(A293=B349)(1)。そこでは、不十分な根拠に基づいて認識された真理としての蓋然性(Wahrscheinlichkeit)対比して、誤謬へ誘うものとしての仮象が述べられている。弁証論を「仮象の論理学」と呼ぶのに対し、分析論を「真理の論理学」と呼ぶのがカントの常であり、超越論的分析論も終わりに近いある箇所では、その論究の所在が「真理の国」という言葉によって美しくたとえられている(A235=B294)。あるいは、「カントは『純粋理性批判』において、理論的理性の領野での魂、世界、神の三理念の客観的実在性を否定して、それらの理念の客観的実在性を実践理性の領野において肯定した」と、一般に言われることが多い。

[1-2]  このようなことを考えると、超越論的弁証論には何か消極的な、分析論よりも低い価値しか認められないようにも思われる。弁証論が、仮象という言葉に代表されるような消極的性格を持つことは確かである。しかし弁証論は同時に積極的性格も確かに持つ。(2)理念は、人間を誤謬に誘う仮象でしかありえないのではない。さもなければ、それはア・プリオリな理性概念であるにもかかわらず、理論理性の領野には在りかを持たぬ宙に浮いたものともなるだろう。以下においては、理論的領野における理念の積極的意味である「体系的統一」の理念を取り出し、若干考察を加えてみたい。

二、

[2-1]  超越論的弁証論の序論には、次のような文章がある。「すべて我々の認識は、感官から始まり、そこから悟性に行き、理性において終結する。理性を越えては、直観という素材を処理して思惟の最高の統一へもたらすところの一層高きものは、我々のうちに見いだされない」(A298=B355)。そして超越論的原理論(Elementarlehre)の最終段落では次のように語られている。「このように[原理論で明らかにしたように]、人間のあらゆる認識は直観をもって始まり、そこから概念へと進み、理念をもって終結する」(A702=B730)。この二つの言葉において、カントは理性(理念)をあくまでも認識と関係づけている。加えてそれを、人間的認識の終結点たる思惟の最高の統一を成就するものであるとしている。つまり、超越論的弁証論においては、理性(理念)が認識の最高の到達点であることが明らかになったはずなのである。

[2-2]  一般的に言っても、理性は人間が持つ最上位の能力であるから、終結点たる「思惟の最高の統一」は、まさに理性が成就するにふさわしいものであると言える。それはまた「理性統一と名付けられうるもので、悟性によって成就されうる統一とは全く種類が異なっている」(A302=B359)。悟性によって成就される統一とは、カテゴリーによる、つまりは超越論的統覚による、直観の多様の統一としての綜合的統一(synthetische Einheit)であり、具体的には判断というかたちであらわれる。悟性の次元でのこの統一が、カントが言う厳密な意味での「認識」である。理性統一はこれとは種類が全く異なるとされているから、上に述べた、認識の最高の到達点を成就するものとしての理性(理念)は、概念と直観の合一としての厳密な意味での認識そのものを生みだすわけではない。それは認識に関係し、そこで理性に独自の統一を生みだし、その統一によって認識を完成させると考えるべきである。

[2-3]  「悟性が規則を介して現象を統一する能力であるとすれば、理性は悟性規則を原理のもとへと統一する能力である。それゆえ、理性は決して最初に経験に、または何らかの対象にかかわってゆくのではなく、悟性にかかわってゆく」(A302=B359)。人間が持つ最上位の能力としての理性は、直接に対象に関係するのではない(さもなければ越権となり誤謬を誘うだろう)。悟性によって成就される綜合的統一としての認識に、つまり判断に関係するのであり、そういう仕方で間接的に対象に関係するのである。判断にかかわるという論理学的側面から言えば、「理性は、推論において、悟性の認識の大きな多様性を原理(普遍的制約)の最小数にもたらし、それによって悟性の認識の最高の統一を実現しようと努める」(A305=B361)ということになる。即ち理性は、諸悟性認識の間の連関形成としての理性統一の能力なのである。「我々が我々の悟性認識をその全範囲にわたって見渡してみるなら、理性が全く固有の仕方で処理し成就しようと試みているものは、認識の体系的なるもの、即ち一つの原理に基づく認識の連関(Zusammenhang)であることが分かる」(A645=B673)。理性統一とは、認識の連関し合った全体であり、それが前提する理念が、「体系的統一」なのである。

[2-4]  「体系」という言葉は、カントにおいては「寄せ集め(Aggregat)」と対比して用いられる。寄せ集めという言葉は、多を集めて成立する一をあらわすという点では体系と同様である。しかし、この言葉は相互に外的に触れ合っている諸要素の並列的接合をあらわすのであり、それら要素は寄せ集めに加わることによって変化することはなく、相互に結びついていても自身の自律性を保っている(3)。カントは悟性の諸認識を、こういう外的で偶然的で没連関的な、単なる堆積とでも呼ぶべきものとして考えており、「悟性の認識の大きな多様性」とか、「個別的統一(distributive Einheit)」(A644=B672)という表現を使うのである。これに対して、体系または体系的統一は、諸要素が内的に緊密に連関し影響し合い、新しい要素が加わるときには全体も変化をこうむり、一方その新しい要素は、体系に加わることによって新しい(十分な)性格付けを受ける、そういうものである。認識の体系的統一とは、内的に有機的に連関し合った統一である。だからそれはまた「合目的的統一」(A694=B722)とも呼ばれる。体系は、カントにおいては、特定の原理的基礎的な部分が他の部分よりも重要性を持つものではないし、前者から後者が演繹的に導出されうるような、階層的構造を持つものとは考えられていない。カントが考える体系とは、すべての部分が他の部分と同じ重要性を持っていて、互いに影響し合う、非階層的で調和的な連関体(4)である。そして、カントによれば、認識は体系的性格をもって初めて学問的となる。「体系的統一は、普通の認識を初めて学問にする。即ち、単なる寄せ集めから体系を作る」(A832=B860)ものなのである。

[2-5]  理性統一としての体系又は体系的統一は、悟性の綜合的統一とは種的に異なっているのだから、悟性はそれを洞察する(einsehen)ことはできない。悟性からすれば、それは偶然的なものである。言うならば悟性は、自らが成就する経験認識の理性的性格(Vernuenftigkeit)を意識することはできない(5)。また、経験可能な事物や事態のすべてが、我々人間に現実に与えられることは原理的に不可能である(6)。したがって、体系または体系的統一といった全体的なるものは、悟性の綜合的統一が成就する規定的認識という意味での経験の次元にはない。それは理念なのである。そしてこの理念は、理性にとって最も本質的なものである。なぜならば、「我々の理性は(主観的には)[理性の本性としてということ]それ自身が一つの体系」(A738f.=B765f.)であり、したがって「理性はその本性上建築術的(architektonisch)である。即ち、理性はすべての認識を一つの可能な体系に属するものと見なし、それゆえまた眼前の認識が、何らかの一つの体系において他の認識と共に存立することを、少なくとも不可能とはしないような、そういう原理だけを許容する」(A474=B502)ものだからである。

[2-6]  理念の優れたそして不可決必然的な使用(A644=B672)として、カントが統制的使用(der regulative Gebrauch der Idenn)を言うとき、その理念の実質は、この体系的統一の理念である。理性はあくまでも悟性に関係し、悟性に対して諸認識の体系的統一という目標を設定して悟性を方向づける。「超越論的理念は、理性の固有の使命を、即ち悟性使用の体系的統一の原理という使命を表現している」(IV.350)のである。言うまでもなく、統制的使用に関するカントの論述においては理念の様々な性格が述べられているし、体系的統一の理念と魂、世界、神の三理念との関係も問題になる(7)。しかし今は、体系的統一の理念が悟性認識に対する方向づけ、目的設定を表現していることを銘記するだけにしておこう。それが統制的使用の第一の意味だからである。そして、理性が他の何者でもなく悟性(認識)に関係してゆくということ、これが理性および理念の真理性への制限(Restriktion)を意味し、誤謬に誘うことなき正当な使用(der gute und immanente Gebrauch der Vernunft;A643=B671)であることを確認しておこう。

[2-7]  ここで論述を進める前に確認しておかねばならないことをがある。体系的統一は悟性によっては洞察不可能な偶然的なものであった。したがってカントの言葉遣いで言えば「理解(Verstehen)」の言葉によってそれを語ることはできない。ところが、悟性による「理解」の言葉こそが、真理の言葉だったのではなかろうか。もしそうであるとすれば、悟性にとって言わばあずかり知らぬところである体系的統一を、理性による「把握(Begreifen)」(以上引用A311=B367)の言葉で語るなどということは、真理とは無関係の余計なものと思われるかもしれない。しかしながら、実は、悟性は確かに真理を語りはするが、その真理は理性的なものと補い合わねばならぬものなのである。言い換えると、超越論的分析論は確かに「真理の国」を踏査したが、そこで明らかにされ根拠づけられた真理は、実は超越論的弁証論をまって初めて十分なものとなるのである。次節でこの点を論じ、その後再び体系的統一について考えたい。

三、

[3-1]  すでに筆者は、悟性はみずからが成就する経験認識の理性的性格を意識することはない、と述べた。これが本節の問題である。

[3-2]  第一に、すでに述べたとおり、悟性はみずからが成就した諸認識の間に連関を形成することはできない。悟性認識はいくら蓄積されても寄せ集めに留まるのである。これは即ち、前節で挙げたカントの言葉にしたがえば、悟性認識がそれだけでは学問的認識たる資格を持たないということを意味する。認識が学問的であるために見たさなければならない条件としての、諸認識の連関的性格を、悟性は知らないのである。例えば、ガリレイの落体の実験から得られた知見とケプラーの法則とが、ニュートンの万有引力の法則によって包括され、その統一体において位置づけと意義を確定されるといったようなこと(8)は、悟性には洞察できない。比喩を使えば、何千人ものつわものが刀と槍を持っていても、それだけでは軍勢ではない。隊列を組み陣形をととのえ、命令を受けてはじめて軍勢である。しかも、軍勢として働くときに、つわもの一人一人は兵法や陣形を知らないのである。

[3-3]  第二に、悟性がその綜合的統一をもって成就する認識は、対象の対象性に、自然一般(Natur ueberhaupt)に関わるのであって、より現実的特殊的な次元には及ばないのである。もちろん経験の対象の規定は、直観が悟性概念のもとに包摂されることによってなされる。しかしこのような対象の対象性の次元、対象を成立させる普遍的可能性の規定(「一般」の次元)に対しては、それと矛盾することなく十分に成立する、現実的特殊的な規定が当然存在するのであって、カントもそれを承知していた。なるほど「自然のすべての現象は、その結合に関してはカテゴリーに依存するのであり、自然(たんに自然一般としてみなされたそれ)は、その必然的法則性の根源的根拠としての(形式的に見られた自然 natura formaliter spectata としての)カテゴリーに依存する。しかし、自然一般が基づいている法則以上の諸法則には、単なるカテゴリーによって現象にア・プリオリに法則を指令する純粋悟性能力ですら、達することはできない」(B165)。現実的経験的な次元に関わる特殊的法則は、経験が付け加わらねばならないというまさにその点で、悟性の洞察するところではない。ただし、そもそも一つの自然しかないのだから、それら特殊的法則や経験的に規定された対象も、最終的にはカテゴリーと無関係ではありえず、カテゴリーから導出されたものと考えられねばならない。「すべての経験的法則は悟性の純粋法則の特殊的規定でしかなく、この純粋法則のもとで、そしてその規範に従ってはじめて、経験的法則は可能なのであり、現象は法則的形式を受け取る」(A127f.)のである。しかしながら、悟性自身はその導出を洞察することはできず、経験的法則は「その起源を純粋悟性からは決して導き出せない」(同上)。つまり、その導出は(悟性的に)理解されえず、(理性的に)把握されるのである。この第二の点は、体系的統一の理念という我々の問題にとってより重要なものとなる。

[3-4]  原則論中の経験の類推の箇所では因果関係と相互作用が究明されているから、悟性認識の次元でも連関形成が認められるのではないかという異論もあるかも知れない。確かに因果関係と相互作用の原則は現象間の関係性を根拠づける。しかしながら、それも継列の総体を成就するものではなく、また、自然一般の次元においてという点はあくまで変わらない。純粋悟性の原則という「必然的法則にしたがった、即ち法則にしたがった現存在に関しての現象の連関」が「自然(経験的意味での)」である。なるほど「ある種の法則が、しかもアプリオリな法則が存在し、それが自然をはじめて可能にする」。しかし「経験的法則はただ経験を介してのみ、しかも、経験でさえそれに即してはじめて可能となるその根源的法則によって、成立し発見されうる。我々の類類はしたがって、本来すべての現象の連関における統一を、ある種の指標(Exponenten)のもとであらわすのである」(以上引用A216=B263)。指標という言葉から知られるように、悟性は一般という形式的な次元に携わるのであって、指標から経験的法則をただちに洞察することは、悟性の洞察力を越えている。カウルバッハは言う、「綜合的原則について総括的に言えることは、それら諸原則からは、例えば数学や物理学や経験的心理学などに対する言明は導出できないということである。それらはただ対象性一般の、つまりは可能的対象の根本性格を規定するのであり、...(中略)...いかなる原理に基づいて学の対象一般が存在する(seiend)として論じられうるかを規定するのである」(9)

[3-5]  以上述べたように、悟性には、「現存在に関しての現象の連関(強調筆者)」を、「すべての現象の連関における自然統一」を知ることはできない。このような諸現象の連関性は、我々の日常的経験とつながっている、この上なく多様で豊富な特殊的経験的なものを含んだ、充実した連関性である。これを根拠づけることは、その「課題の大きさ」(V.184)からして悟性にはできないのである。その意味で、超越論的分析論をもって知識の根拠づけが完了したということはできない。悟性はそもそも物がいかにして可能であるかを決定しているが、例えば有機体が、植物が、薺がいかにして可能であるかを洞察することはできない。人間理性は悟性の概念と原則によってでは満足を見いだせない。それは、目の前の垣根のもとに咲いている一本の薺を、万物との充実した連関において洞察するような真理を、最終的には求めているのである(10)。理性は、自己自身と一致し満足しようとして、そこまで至ろうとする。理解の言葉ではなくて、把握の言葉がそこで語りだされる。「悟性認識の体系的統一は諸規則[この規則はこれまででてきた法則と同じ。普遍的なそれと特殊的なそれとを含む]の真理性の試金石」(A647=B675)であり、そして「体系的統一を求める理性の法則は必然的である。なぜならこの法則がなければ我々は前々理性を持たないだろうし、理性がなければ連関した悟性使用を持たないだろうし、連関した悟性使用が欠けていては経験的真理の十分な徴表を持たないだろうから」(A651=B679)。普遍的形式的な次元のみならず特殊的現実的な次元までも含めた、体系としての連関的性格(11)、即ち「体系としての経験」(XX.209)、これが悟性の洞察できない理性的なるものであり、この理性的なるものをまって、知識の真理性は十分な仕方で保証されるのである。

四、

[4-1]  前節の最後に引用したカントの言葉は、体系的統一としての理性統一がなければ(間接的にではあるが)経験的真理は十分な仕方では成立しない、と語っていた。だとすれば、体系的統一は、悟性統一に劣らないほど根源的な地位にあるのではないか、言い換えれば、体系的統一が何らかの仕方で対象の可能性の制約をなしているのではないかと考えることができるだろう。実際カントは、先の引用に続けて次のように言う。「したがって、我々は経験的真理の十分な徴表に関して、自然の体系的統一をあくまで客観的に妥当的かつ必然的として前提せざるをえない」(A651=B679)。これはどういうことなのだろうか。

[4-2]  体系的統一が諸認識の体系的統一である限りは、それは知識(諸概念や諸法則)の体系性であり、学問的行為を導き、獲得された知見の連関形成を導くという意味でメタ理論的方法論的なものであり、その限り学問的認識行為の構成的(konstitutiv)原理だと言える。カントは「論理的原理」(A648=B676)と言う言葉でこの側面を述べている。そして体系形成のための規則として「有るものを不必要に多くしてはならない(同種性)」「有るものの多様性を理由なく減じてはならない(多様性)」「形式の間に空虚はない(親和性)」というまぎれもなく方法論的な規則を挙げている。そういう方法論的規則の有効性や妥当性は、前節に挙げた万有引力の法則の場合をはじめとして、自然科学の営為をかえりみれば十分納得できることであろう。

[4-3]  しかしながらさらに、体系的統一やそれら体系化の規則は、単に論理的(formarum logicam)ではなくて、「自然における(in natura)」(A660=B688)それでなければならないとカントは述べている。体系的統一の理念はメタ理論的方法論的であるのみならず、超越論的存在論的側面をも持つというのである。即ちカントによれば、自然の事物は、理性の立てる理念である体系的統一に適合した仕方で同種的に共通し、同時に多様に特殊化し、しかも連続してなじみ合う、つまりは事物自身の方が連関しあって体系を形成するようになっている。自然は合目的性を持つ。体系的統一は「自然の内的法則」(A650=B678)であり、体系化の規則も「自然において出会われる」(A652=B680)ものである。これはすなわち「物自身の自然本性が理性統一に素材を提供する(同上)ということであるから、理性は体系的統一を自然に対して「無心する」のではなくて「命令する」(A653=B681)ことができる。また超越論的存在論的側面はメタ理論的方法論的側面の前提である。なぜなら「実際もし超越論的原理が、つまりそれによってこのような体系的統一が客観自身に属するとして、必然的としてアプリオリに想定される原理が前提されないならば、諸規則の理性統一の論理的原理がいかにして成立しうるかは見て取られえない(A651f.=B678f.)からであり、もしそうでなければ「その場合には理性は自然の仕組み(Natureinrichtung)に全く反した理念を目的として立てることによって、自分自身の使命に全く背いて振る舞う」(A651=B679)ことになるからである。「統制的原理は体系的統一を、単に経験的に認識されるだけでなく、なお未規定ではあるがアプリオリに前提される、そういう自然統一として端的に、即ち事物の本質から帰結するものとして前提することを欲求する」(A693=B721)のである。

[4-4]  「自然の内的法則」「客観自身に属する」「事物の本質から帰結する」「命令する」といった言葉を見ると、体系的統一の理念が対象そのものを規定する権能を獲得し、統制的ならざる構成的な原理として考えられているようにも思える。しかしもしそうだとすれば、それはカント自身が対決した合理論的形而上学と大差ない考え方であろう。ここで述べられる「命令する」理性は、あくまでも統制的な在り方をしている理性であることをゆるがせにしてはならない。それは直接に対象に関係するのではなく、悟性を介して対象に関係する理性である。そのような理性である限りでのみ、妥当性を要求することができ、上に挙げたような言葉を用いることができるのでる。

[4-5]  したがって、上の「自然の内的法則」などの表現は悟性的な指令(vorschreiben)を意味するのではない。体系性はIst-sagenではなくてAls ob-sagenと言うかたちで思惟され言明される。「かのように」は確かに悟性的な客観真理(Objektwahrheit)ではないが、だからといって偽なのではなく、把握の言葉として理性に独特の真理性である。悟性的な指令を通してでは、体系性を知ることはできない。体系性はしかし、それなしでは理性そのものが存立し得ぬものであるから、理性はそういう主観的根拠に基づいてそれを要求し想定する。要求し想定するとは、そもそもは欲求能力である理性(12)に本質的な在り方である。つまり、理性は悟性のあずかり知らない思惟において方向を定めること(Sichorientierung im Denken)に従事するのである。「思惟一般において方向を定めるとは、理性の客観的原理が及ばない場合に、理性の主観的原理にしたがった信憑(Fuerwahrhalten)においてみずからを規定することを言う」のであり、「その場合になお残っている主観的な手段は、理性に固有の必需の感情にほかならない」(VIII.136)(13)。体系的統一は、統制的な在り方をしている理性が、それなしではみずからが存立し得ぬものとして感じ「欲求」する理性の必需(Beduerfnis der Vernunft)である。それは悟性の洞察不可能なところで語られる信憑としての別の真理性であり、それを発見し形成することが「理性の使命」であり目的である。したがって体系的統一は「思弁的理性の格率」と呼ばれ「主観的」とされる(A666=B694,A680=B708など)。

[4-6]  主観的という言葉は現代の人間が不注意に読むと誤解を招きやすいが、ここで言われる主観性は決して私的恣意的なものを意味しない。それはむしろすべての人間に妥当する、人間理性そのものの法則性のことである。そうでなければそもそもメタ理論的でもありえない。あるいは少なくとも学問的行為の次元において、理性を欠いた人間などは考えられない。「格率」という言葉も、主観的ではあるが、あくまでも原理をあらわす言葉であり、しかもここでカントが言うのは、「思弁的」理性の格率である。実践の分野で言われる格率は、偶然性恣意性を持つことがありうるが、思弁的なそれは主観的ではあるがあくまで必然的である(14)。それは見渡し難い自然事物の多様性の中でzu rechte finden(XX.214)することを可能にする制約として人間理性が立て、投げかける意味である。それゆえ格率の、つまり理性の次元で実現される真理性は、規定的指令的な客観真理ではなくて、むしろ理性の自己自身との一致、投げかけた意味の充足というかたちを取る。

[4-7]  理性の自己自身との一致、満足という真理性は、それを独善的な独り相撲にすぎぬとする誤解を免れることができる。というのも、理性は統制的な在り方をして感性界との関係にあり、自然事物との関係で体系的統一を投げかけるからである(relativ auf die Sinnenwelt; A677=B705)。また、体系的統一は規定的指令的な悟性の綜合的統一とは次元を異にするものである。これは一方では体系的統一がunbestimmtであるということを意味するが、他方同時に次のようなことをも意味する。つまり、自然の体系性が問題となるところでは、悟性による指令、あえて言い換えれば、算定と支配とは別の仕方で人間理性は自然に対するのであり、それに応じて自然は拘束されざる別の相を示すのである。理性の真理性は、算定と支配ではなくて、信頼し応答されるところに成立する。一般的普遍的な次元と同時に成立する特殊的現実的な次元をも含めた体系性に関しては、自然は悟性の拘束を離れ、自分の方から体系として展開し生成する。理性が格率として立てる要求に対して合目的的に「提供する」のである。体系性は自然に現在(gegenwaertig)しており「自然において出会われる」。これは悟性からすれば偶然とされざるを得ない。それゆえ「かのように」と語られねばならない。しかし、体系的統一は「経験的に認識[このerkanntは厳密な意味での認識を言っているのではない]される」のである。即ち、理性はこの偶然と満足を現実の自然事物の諸形態や自然理論の連関形成、そして生命あるものにおいて経験しており、自然には体系性が浸透していると判定し把握の言葉で語ろうとするのである。

[4-8]  自然の体系性とは、人間理性に対して自然が合目的的に理性になじんだ性質を示すということであるから、いわゆる目的論的な思想だということができる。目的論的思想はしばしば非学問的として軽々に否認されてしまう。しかし自然の体系性はむしろ、先学問的だと言えるだろう。自然が理性になじんだ在り方をしているということは、人間が現実の様々な領域で出会う事物について語ること、我々が現実に形成する概念が内容を持つことを成立させる最初の制約として前提されるのである。悟性的な指令が、これと矛盾する関係にあると考える必然性はない(15)

[4-9]  自然における体系性の現在は、格率という主観的な側面と、悟性の拘束を脱した自然という客観的な側面とに支えられている。理性にとって、そのさらなる根拠はさしあたっては問題ではない。賢くも神はこのように望み賜うたと語ることは、賢くも自然はこのように秩序づけたと語るのと全く同じだからである(A699=B727)。カントは体系的統一をイデアリテートに解消させはしない。自然はその方向に対する言わばカウンターバランスとしてカントの思考に働いており、しかも彼には自然に対する健全な信頼があると思われる。「彼のように」と「格率」という二点は、そこから由来することであろう。この二点は自然科学的言説になじんだ現代にとってはいささか薄弱な主張に響くかも知れない。しかし、哲学の語る言葉が持つべき確実性ないし真理性といったことや、形而上学としての哲学(16)といったことに思いをいたすなら、それは意外に豊かに響いてくるのではないだろうか。この点について、最後に次のカントの言葉を挙げておこう。「哲学は理性の思弁的および実践的な格率についての学問である。哲学は一切のもの[経験の対象のこと]を越える。認識は理性の格率のための手段を含む限りで哲学的である」(XVI.69.Reflexionen 1660.)。

(1)『純粋理性批判』からの引用は、慣例通り第一版と第二版のページづけを括弧に入れて本文中に記す。それ以外のカントの著作からの引用は、アカデミー版全集の巻数とページ数を括弧に入れて本文中に記す。傍点は原文のゲシュペルト。すべての引用文の訳は、邦訳のあるものはそれを参照しながら拙訳を試みた。[    ]内は筆者の挿入である。
戻る

(2)弁証論は言うまでもなく論理学の一部門だが、その積極的意義は『論理学』においてすでに認められている。IX.S.16f.では、弁証論を仮象の論理学とすると同時に、「規則と徴表を含む」「悟性の浄化剤(Katharktikon)」とも呼んでいる。
戻る

(3)以上の記述は、F. Kaulbach; Artikel Aggregat, in "Historisches Woeterbuch der Philosophie" Band I. 1971 Darmstadt S.102による。
戻る

(4)「全体的なるもの」(das Ganze)についてのA833=B861の記述参照。あるいは、P.Krausserが「一種のNetzwerkstruktur」と呼んでいることも参照。(Ueber den hypothetischen Vernunftgebrauch in der Kritik der reinen Vernunft, in "Archiv fuer Geschichte der Philosophie" Band 69. 1987)
戻る

(5)「悟性はその現象への固定性(Fixiertheit)において自分の理性的性格を意識しておらず、そして各々の内容上個別的な認識においてそれを見失っている」(P.Heintel; Die Dialektik bei Kant, in "Zur Kantforschung der Gegenwart" 1981 Darmstadt S.66)
戻る

(6)たとえば、「私は世界全体を常にたんに概念において持つのであって、決して(全体として)直観において持つのではない}(A518f.=B546f.)
戻る

(7)これらの問題については、R.Zocher; Zu Kants transzendentaler Deduktion der Ideen der reinen Vernunft, in "Zeitschrift fuer philosophische Forschung" Band12 1958 や、H.Krings; Funktion und Grenzen der Transzendentalen Dialektik in Kants Kritik der reinen Vernunft, in "Bedingungen der Moeglichkeit" 1984 Stuttgart を参照。
戻る

(8)この例は、F.Kaulbach; "Immanuel Kant" 1982 Berlin/New York S.193による。O.Hoeffe; "Immanuel Kant" 1983 Muenchen S.164f. に、同様のそしてさらに多くの例が挙げられている。
戻る

(9)Kaulbach 上掲書 S.157f.
戻る

(10)「すべての真の形而上学は……中略……経験的表象の多様をはじめて合法則的結合にもたらし、それによってその多様が経験的認識に、すなわち経験になりうる、そういうア・プリオリな概念と原則を含む」(IV.472)。この文の、カント自身による強調を筆者は重視したい。さらに、『プロレゴメナ』第57節も参照。
戻る

(11)「体系的統一の理念においては、カテゴリーにしたがった普遍的綜合により成就される現象継列の完全性だけが考えられているのではない。それ以上にまた、見渡しがたい数多性においてわれわれに与えられ、カテゴリーが未規定に残したところの特殊的なもの、まさにその特殊的なものそのものがなす特殊的で統一的な世界連関も考えられている(K.Duesing; "Die Teleologie in Kants Weltbegriff" 1968 Bonn S.25)。
戻る

(12)理性がそもそも欲求能力として考えられることは、『判断力批判』序論での表(V.198)や、『実践理性批判』および『純粋理性批判』での Interesse という言い方を思えば納得できるだろう。
戻る

(13)1786年の論文 "Was heisst: sich im Denken orientieren?"(VIII.133-147)からの引用。この論文では特に超感性的なるものとの関係で「理性の必需」が述べられるが、そこでの思想は経験認識にも当然あてはまる。H.Krings; Artikel Denken, in "Handbuch philosophischer Grundbegriffe" Studienausgabe Band1 1973 Muenchen S.274-288 も参照。
戻る

(14)J.Simon; Teleologisches Reflektieren und kausales Bestimmen, in "Zeitschrift fuer philosophische Forschung" Band30 1976 を参照。
戻る

(15)H.Heimsoeth; "Transzendentale Dialektik -Ein Kommentar zu Kants Kritik der reinen Vernunft-" 1966 Berlin S.13f.を参照。
戻る

(16)F.Kaulbach; Kants Auffassung von der Wissenschaftlichkeit der Philosophie -die Sinnwahrheit-, in "Kant-Studien" 76.Jahrgang 1985 が、これらの問題について論じている。
戻る


索引のページ

私が書いたもののページ