技術者の責任


[1-1]  近世初頭イギリスの哲学者フランシス・ベーコンには古代の様々の神話的伝承について解釈を加え論じた『古人の知恵』(一六〇九年)という著作があり、その一節では、ギリシャ神話に登場する天才的機械技師ダイダロスの伝承が論じられている。ダイダロスは「技術者」の祖先と解されており、ベーコンは伝承された物語をもとにして、人間が行なう「技術」の営みについて深い考察を記している。例えば、

「人間生活は機械技術に大きく負っており、宗教上の用具や市民生活の装飾や全生活の文化に関する大部分が、技術者の宝庫からもたらされたものである」。

[1-2]  技術ないし技術的営みが現代において人間生活に対し持っている意義や影響の大きさは、農業生産における化学薬品、医療技術、家庭の電化など、機械技術に限らずとも明白であるが、ほぼ四百年前に、「全生活の文化に関する大部分」にとっての技術の意義が洞察されていたのである。

[1-3]  鍛えぬいた優れた能力をもって技術的営みに携わる人々、ダイダロスの子孫である「技術者」たちは、近世以降社会や国家から必要とされ、一般の人々から尊敬を集める存在でもあった。数十年ほど前までは、技術的営みの一つの特記事項である「発明」を成し遂げた人物は子供たちの憧れであり、子供たちは自分も発明家なり技術者なりになって、世の中のためになりたいと思ったものだった。

[1-4]  しかし、今現在一般の人々が技術者や発明家に対して抱いているイメージは、必ずしも肯定的なものではないだろう。例えばエディソンのような人を少し軽蔑するのが知的な人間のしゃれた態度だとする雰囲気もあるようだし、大学の卒業生が技術系の職にあこがれを持っているとはとても言えないだろう。いや、我々は現代の技術的営みに対して、一種の恐怖をおぼえ、技術者に対して否定的なイメージさえ抱いているのではなかろうか。ダイダロスが少年少女を食らう怪物ミノタウロスを誕生させ、迷宮ラビュリントスを建造してそこに隠したように、技術者はその優れた能力によって人間と世界に対し悪を行ないうる(行なってきた、行なっている)存在だとも考えているのではなかろうか。しかも我々がそういうイメージを抱くのは理由のないことではない。人間の存在と自然や環境の存立に関し現代の世界に起こっている様々の脅威を見れば、このイメージには十分の根拠があると言える。技術的営みが暴走すれば......と考えるのは当然のことである。

[1-5]  ただし、肯定的と否定的いずれのイメージにせよ次のことは共通している。つまり技術者には、人間と世界の現実を変化させ、人間に新しい能力をもたらす大きな力があるということである。現代におけるこの力の展開と伸張は目もくらむばかり、技術者の向かうところ不可能なことはなしとさえ思えるが、まさしくこの力に対してこそ、我々は善とも悪とも一概に言いきれないアンビヴァレンスを感じているのである。そこで考えてみたいのは、技術者についてと一般の人々についてとでは、道徳的な要求や非難や称賛に関して違いを考えることができるかどうか、違いを考えるべきなのかどうかである。

[2-1]  この問題について一つの典型的な立場を表明しているK.D.アルパーンの所論を見ながら考えてみよう。

[2-2]  前もって言うと、アルパーンの立場は技術評価(technology assessment)の問題域における倫理的技術コントロールの考え方である。即ち、個々の技術者が特別の道徳的責任を負うべきである。技術者は技術的発展から生じうる害や悲劇から社会を守るという独特の責務を負う。技術者は公共の利益を守るためにすすんで自分の地位を危険にさらしそのほかの個人的犠牲を払わねばならない。彼は以下のようにしてこれを根拠づける。

[2-3]  すべての伝統的な倫理理論に含まれる構成要素として、他人に害を与えることは道徳的に誤りである、という原則を認めることができる。「害を与える」という言葉は未来の出来事を排除しないから、ここからアルパーンは、「人は、他人を本質的に害することにあずかりうるような一切のことを避けるように、適切な配慮をするべきである」との「配慮の原理」を導きだす。「適切な配慮」とは「自分の行為から帰結しうる害について知り、害を避けるために予防措置を講じ、害の可能性を減ずるためにすすんで犠牲を払う」ということである。これを見ると、「配慮の原理」は害の「予防」に重点を置いたものであることが分かる。

[2-4]  さらにアルパーンは、「配慮の原理」をより実質的なものとするために、「ある人が、より大きな害に関与したりその害を引き起こすのに決定的役割を果たしうる場合には、その人は、これを避けるために、より大きな配慮もしなければならない」という「配慮比例の補完命題」を提示する。

[2-5]  この二つの、特に技術者に限定されるわけではなく人間一般にあてはまる原理及び命題から、力ある人としての技術者は、一般の人々よりも高い程度の配慮を義務づけられるということが帰結する。技術者に対しては他の人々よりも大きな犠牲を払うことを要求してよいというわけである。たとえて言うと、技術者はタンク・ローリーの運転者であって、普通乗用車や軽自動車の運転者ではない。前者には基本的交通ルールを遵守し安全運転するよう後者より高い配慮が要求されて当然である。

[2-6]  実は技術者たち自身も、少なくとも公の場では、自分たちの道徳的責任についてアルパーンのような立場を表明しているし、欧米の技術者団体の倫理綱領では、公共の福祉への貢献に優位が与えられている。しかし実際には反論のあることが予想される。アルパーンとともにいくつか見てみよう。

[2-7]  「もし協力しなければ、私は失業するだろう。私に自分の仕事場を賭けることを期待するのはフェアでない」ーーーこれは道徳性と個人の利益はしばしば衝突するという、よくある反論である。伝統的には、「道徳的考慮は個人の利益を上回る類のものである。道徳的勇気を示すべきときである」と返答できる。ただしこれは技術者が自分の利益を図って悪行を行なう場合にのみ妥当する。

[2-8]  悪行を行なうきっかけが他人(上司など)から与えられる場合、当の技術者は他人の不道徳を償うことになるから、同情に値する。しかし彼には同情以上のものが帰されねばならない。なぜなら彼は技術者という、一定の利益に並んで一定の拘束性が結びついた仕事を選び取っているからである。さらに、きっかけが他人から与えられたからといって、悪行は認められない。それは人間であるかぎり各人が実現を目指して接近すべき、道徳的完体性(moral integrity)を損なうことになるるからである。

[2-9]  この場合については二つの補助的条件がつく。まず、国家や監督官庁に技術者を道徳的たらしめることが十分できるわけではないから、社会は、技術者の道徳的用心深さを頼りにせざるを得ないという事実である。そして、誰かが技術者を職業として選択することは社会にとってどうでもよいことではないから、技術者が自分に課された高い程度の配慮を払うべきだとの要求に答えようとするときには、社会がある程度の支持・援助を彼に与えるべきだということである。

[2-10]  「私がそれをしなくても、誰か他のものがそれをするだろう」ーーーこれに対しては、「自分がしなければ他人がそれをするだろうという状況は、行為を正当化しない」と返答できる。赤信号を誰かが渡っていても、やはり私は、渡るべきではないのである。

[2-11]  「それは私がするべきことではない」ーーー現代の技術的営みは、専門化細分化した分業体制のティームによって行なわれる。ここの技術者に全体的な決定権があるわけではなく、全体の決定は指揮権を持つ技術者あるいは技術者以外のより上位の人間が行なう。こういう状況からこの反論は生じる。しかし、決定権を持つことだけが影響を与える唯一のかたちではない。技術者たちの現実の労働が今述べたように組織されていることを認めるとしても、それによって技術者の労働から生じうる害に対する責任がなくなるわけではないし、その責任に応じて行為する道徳的必然性がなくなるわけでもない。例えば技術者には参加や協力を拒絶することもできる。

[2-12]  「他にやりようがない」ーーーひょっとしたらすべての職業が、道徳的妥協を強いる状況を必然的に伴うのではないか。たとえ技術者が強靭なモラルと善き意志を持っているとしても彼が何をなすべきだというのか。技術者が技術者としてのキャリアを道徳的根拠によって捨てなければならないのだろうか。これに対するアルパーンの返答は端的で、もし悲劇を生みだしうる行為によってのみ技術者としてのキャリアを積みうるのなら、それは移住を試みたり転職したりするべきときだ、である。

[3-1]  以上がアルパーンの所説である。明快で力強い説と言えるだろうが、このような倫理的技術コントロールの考え方は現代の技術を顧みるとかなりの問題を呼ぶ。

[3-2]  まず、「配慮の原理」は基本的に害の因果的説明に基づいている。直接的な原因結果関係だけでなく副次的結果としての害の予防まで考えられているが、それもやはり因果的連関に他ならない。しかも個々人の理性的計算による因果的な予見が考えられている。

[3-3]  しかし現代の技術的営みに特徴的なのは、その作用のアンビヴァレンスである。聖書の時代のように剣を鋤に打ち直せば話がすむのではない。現代の技術的営みが人間と世界にもたらす作用は時間的にも空間的にも巨大である。そして人間集団であれ世界であれ、決して閉じた系ではない。善きものである鋤だけを作るとしても、鋤が鋤のままで害を引き起こしうるとしなければならない。善きものがそのままで悪しきものでありうる。このような現代技術のありさまを見るとき、一体誰に因果的な予見をすることができるだろうか。誰が予見のための正しい関数を知っているだろうか。「配慮の原理」が有効性を発揮しうる範囲はかなり狭く、「適切な配慮」が成立する範囲もかなり狭い。

[3-4]  さらに、その狭い範囲の中で、一人の技術者が害を予見しそれを避けようと決意し、道徳的に責任ある何らかの行為をしたとしても、そのことは必ずしも、彼が行なっていた技術的営みの全体的な帰結が害を生まなくなるということを意味しない。個々人の善き戦略が全体的な帰結の善さを保証するとは限らないことは論理的にもはっきりしている。(いわゆる「囚人のディレンマ」)。

[3-5]  だが他方で、「責任」とは「配慮の原理」が有効性を発揮できる狭い範囲内でこそ明確に成立しうるものだとも考えられる。「責任を追う」「責任を引き受ける」「責任を問われる」「責任ある行為をする」といった責任現象を見れば、何に対して、何の責任を追うのかといったことが具体的に明確になっていない場合には責任は成立しにくいことが分かる。また、「責任を果たし責任から解放される」という時がやってこないようなものを責任とは考えにくい。責任とは具体性をそなえた拘束性でなければならず、「何となく」とか「あらゆることに」というような在り方をするならば、例えば情動や気分のような、本来は責任とは区別されるべきものにすりかわってしまうと思われる。

[3-6]  以上のように、個々の技術者の責任を十分な仕方で問題にできる範囲はかなり狭い。ところがその狭い範囲以上のところにこそ、現代技術の脅威がある。そしてさらに、その狭い範囲の中で個々の技術者が責任ある行為をしたとしても、現代技術の脅威が薄れるとは限らない。倫理的技術コントロールの考え方だけではやはり不十分なのである。

[3-7  とはいえ、狭い範囲内で技術者が道徳的に行為するべきだということ、このことは最低限ゆるがせにできない。技術的営みの巨大さとそれに携わる技術者が力ある地位にいることは確かなのだから。我々はそこに出発点を取ったうえで、一歩を進めねばならない。

[3-8]  それはおそらく「共働(co-operative)ということであり、アルパーンも社会の支持・援助というかたちで考慮していた、社会的なものの関与であろう。つまり、倫理的技術コントロールの考え方と一対をなす、政治的技術コントロールの考え方であろう。もちろんこれは、ある面非常に危険なところがある。おぞましい例や失敗例を思い浮かべるのに時間はいらない。また、そもそも現代の世界では、科学技術こそが国家にとって最重要の産業であるし、科学技術が政治的支配を正当化する役割を果たしているということもできる(ハーバーマス)。アルパーンも国家や監督官庁に技術者を道徳的たらしめることが十分できるわけではないと言っていたが、国家や政治が道徳的に責任ある行為をしようとする技術者を簡単に許容するとは考えにくい。市民運動や技術者団体も道徳的であるとは限らない。そして、先に述べた、現代技術の作用のアンビヴァレンスを思えば、政治的技術コントロールが現代技術の脅威に対して有効だとはそもそも言えないのである。

[3-9]  冒頭に引用したベーコンは既にこのことを洞察していた。ベーコンによれば、

  技術は有罪とされ禁止されても「隠され保持され、いたるところに隠れ場所を持っている」。「確かに真実のことだが、要するにそれは法の手綱で抑制されるというよりは、その本来の空虚さによって虚偽であることが証明される」。

[3-10]  我々もベーコンの洞察の大半は認めざるを得ない。しかし我々としては、技術の本来の空虚さをあてにして、じっと待っているわけにもいかない。何らかの仕方で政治的技術コントロールを考える以外にないと思われる。個々人と共働と、力あるものとしての技術者には二つの面から道徳性を求めていかざるを得ないだろう。そしてこのことは、技術者以外の一般の人々にも実はあてはまりうるのであろう。厳密には詳しい論証が必要だが、人間は地球上でもっとも力ある地位に座している。そしてそもそも人間は、homo faber(作る人、工作人)として存在しているのであるから。


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