「Quality of Lifeー基本的反省と提起されている問題ー」


はじめに

[0-1]  QOL(quality of life)という言葉は、近ごろ日本でも一般的な語彙になってきた。新聞やテレビなどでも使われるようである。このことそのものは、おそらく歓迎すべき事態なのだろう。だが、よく目をこらしてみると、QOLという言葉が単なる符牒になってしまっているのではないかという懸念もある。その内容とそれが提起する問題をしっかりと捉えることなく、極端に言えば、空虚なハヤリコトバになっているのではないかと思われることさえある。医学医療(1)に携わる人間のあいだでさえ、ときに内容空疎な仕方でこの言葉が用いられることがある。しかし、こうした事態にもそれなりの理由はあろう。QOLという概念およびその内実について、明確な理解を形成するのが難しいようなのである。QOLとはいったいどういうことなのか、これは意外に明確でないように思われる。医学医療に携わる者のあいだでも、哲学・倫理学に関わる人間のあいだでも、これについて特定の一致した見解がすでに成立しているようにも思われない。おそらくそれは、QOLをどう捉えるかが、そもそも人間をどう捉えるかに関係するところがあるからだろう。

[0-2]  そこで本稿では、QOLの概念あるいはQOLという考え方について、基本的なところを確認するとともに、そこから生じる問題をいくつか提示したい。そして最後に、少しばかり考察を試みたい。もちろん、これは筆者なりのやり方で行なうのであり、異論もあろう。筆者自身の人間観もそこにあらわれてくるのかもしれない。

1.ライフに対する日常的な区別

[1-1]  QOLという言葉は、生命倫理学(bioethics,Bioethik)が登場して以来、いわゆる学問の世界で、そして、今述べたように一般社会で通用するようになったものである。この事情からすると、この言葉によって語られている考え方・思想が、何か新しい、それまでに存在しなかったものであるかのような印象を与えるかもしれないが、実はそうではない。QOLの考え方は、われわれ人間が日常的に採用している、ものの見方だと言える。QOLという言葉が刻み出されたことで、それが明確に取り出され、問題があからさまにされたのである。この点を確認するために、日本ではテレビアニメーション化までされた、よく知られたファンタジー作品の一節を引こう。トーベ・ヤンソンのムーミンシリーズの一冊、『ムーミンパパの思い出』である。この作品は、まだ若い頃のムーミンパパが捨て子ホームを脱走してさまざまの冒険を経た後、ムーミンママに出会うまでを物語る。引用するのは、スナフキンの父ヨクサルについて、若きムーミンパパと友人で発明家のフレデリクソンが対話する場面である。(2)

[1-2]「そういっちゃいけないね。それは反対で、ヨクサルのほうが、案外いろいろと気をつかっているのかもしれないよ。おちつきはらって、てきとうにね。
  ぼくたちは、いちばんたいせつなことしか考えないんだなあ。君はなにかになりたがっている。ぼくはなにかをつくりたいし、ぼくのおいは、なにかをほしがっている。それなのにヨクサルは、ただ生きようとしているんだ」
「生きるなんて、だれにだってできるじゃないか」
  と、わたしはいいました。
「ふん」
  と、フレデリクソンはいったきり、いつもとおなじようにだまりこくって、ノートにむちゅうになっていました。ノートには、くもの巣や、こうもりのような、ふしぎな機械のしくみがいっぱい書いてありました。
  いずれにせよ、わたしにはヨクサルの態度は、だらしがないように思えました。つまり、生きるだけというのがです。
  生きるということは、あたりまえのことです。わたしの見かたからすれば、わたしたちのまわりには、いつも重要で意義ぶかいものごとが、ごろごろしている。それを体験し、そのことについて考え、そうして、それをじぶんのものにしなければならない。あんまりやりたいことが多いので、考えるだけで、ぞくぞくと首すじの毛がおったつ思いがします。そうして、その中心にはわたし自身がいて、もちろん、わたしがいちばん重要なのです。

[1-3]  基本的には子供向けの、優れた、日本でも有名な、このムーミンシリーズに、こういうテキストがある。ここでは、若きムーミンパパを語り手として、「ただ生きること」が「だれにだってできること」として、それだけであっては「だらしない」こととして語られている。「ただ生きる」だけでは不充分であり、それ以上に必要なものがあると語られている。この世にある限り、「じぶんのものにしなければならない」ことが、「首すじの毛がおったつ思い」がするくらい、たくさんあると語られている。

[1-4]  今やったように特別に取り出して示してしまうと、問題の存在を感じ取る人もいるだろう。しかしそれにしても、ここに語られている考え方は、別に新奇なものではない。子供がここを読んで抵抗をおぼえることはないだろう。成人が読んでもおそらくそうだろう。子供ならむしろ、ここを読んでなんとなく心はげまされ、「楽しみだな、ようし頑張ろう」などと感じたりするのではなかろうか。ここに語られているのは、われわれ自身が日常的に採用している、ものの見方・考え方なのである。それを、QOLに含まれている「ライフ」という言葉を用いて表現することができよう。すなわちそれは、「単なるライフ」と、多くの事柄を自分のものにしている「望ましいライフ」とを区別する、そういう考え方である。ただし、正確には、「望ましいライフ」は「単なるライフ」を含んでいなければ事実上成立しない。それゆえこの区別は、

「単なるライフ」と
「望ましいライフ」=単なるライフ+多くの事柄を自分のものにする
となる。

[1-5]  ここではライフが問題になっているわけだが、われわれは日常、たいていのものについて同じような区別を立てる。簡単な例を挙げれば、「単なる机」と「望ましい(よい)机」となろう。あるいは試みに、上の定式のライフのところに「医学生」を入れてみればよい。医大の教官たちのみならず学生自身もおそらく、そして一般社会はもちろんのこと、「単なる医学生」であればそれで充分だとは考えていないだろう。「ただ医学生であるだなんて、だらしないじゃないか!」とでもなろうか。以上のように考えると、「単なるライフ」と「望ましいライフ」とを区別して、前者だけでは不十分とするすることは、とりたてて新奇なものではないと言える。むしろ、われわれが日常的に行なっている区別があらわれているだけだと考えられる。(3)   だが、やはり、ここではライフが問題になっているわけである。引用したテキストを読み直してみよう。フレデリクソンは、「そういっちゃいけないね」と話している。彼は「ふん」と返事をしている。ムーミンパパは、いささか声高に語っている。しかも、このムーミンパパはまだ若い。未熟である。ヴィルヘルム・マイスターをもじって言えば、徒弟時代、せいぜい遍歴時代のムーミンパパであって、まだ名匠の時代には至っていない。さらに、「その中心にはわたし自身がいて、もちろん、わたしがいちばん重要なのです」という彼の言葉は、どこか問題を感じさせる。さすがにこれは優れた文学作品なのであって、立ち入って考えるべき何ごとかを示唆している。

2.ライフの質

2-1.多様性の側面

[2-1-1]  QOLの考え方は、先の定式の「多くの事柄を自分のものにする」という部分に着目して、「望ましいライフ」を注視する。QOLのQ、「質(Quality)」とは、先の定式の「多くの事柄を自分のものにする」という部分にあたる。生きている人間は、「単なるライフ」を有するのみならず、一人一人がそれぞれの仕方で、多くの事柄を自分のものにしていく。あるいは、生きている人間は、一人一人がそれぞれの仕方で、多くの事柄を自分のものにしていかねばならない。さまざまの事柄が自分のものになることは、充実感を呼ぶ。満足を呼ぶ。そうした事柄のなす集合が、その人間のライフの質をなす。ここで、自分のものにされるさまざまの事柄中の任意の一つをaで表わすとすれば、先の定式は、
「望ましいライフ」=「単なるライフ」+(a1+a2+......+a(n−1)+an)
Q(Quality)=(a1+a2+......+a(n−1)+an)
となるわけである。(4)

[2-1-2]  さて、Qの内容が人間一人一人によって異なることは言うまでもない。a1からanまでのすべてが同じであるような二人の人間が現実に存在することは、まず不可能である。一人一人の人間の性別、年齢、受けた教育、職業、暮らしている文化など、多種多様な要因によって、Qは千差万別になる。第一にこのような意味で、質は多様性を持つ。

[2-1-3]  さらに、Qは単なる寄せ集めの集合ではなく、人により程度の差はあれ、内部に何ほどかそのつどの連関を有する、一つの統一体を形成するだろう。すると、次のようなことが考えられる。二人の人間のQに同じ一つの事柄axが共通に存在するとしよう。これは充分ありうる事態である。ところが、axが連関的統一体たるQにおいて持つ重みが、あるいは同じことだが、axがそれぞれの人間にとって持つ重みが、異なりうるのである。もちろん、axを失うことは、それが失うことである以上、全体として質が低下することを意味する。それゆえ基本的に歓迎すべきことではない。この点は両人に共通する。しかし、一方の人間にとってaxはそれほど大切なものではなく、失ったとしてもそれを許容することができ、生き続けることができるが、もう一方の人間にとってaxは、それを失うことがただちに彼(彼女)のライフの質の激変激減を意味するほどの大切さを持つことがありうる。彼(彼女)は、それを失ったあるいは失いそうであるがゆえに、自分のライフを捨てる(みずから死を選ぶ)、ということも考えられるのである。このような意味でも、質は多様性を持つ。

[2-1-4]  ちなみに、大切なもののゆえに人間がみずから死を選ぶというのは、必ずしも極端なことではない。たとえばここで「緩慢な自殺」というものを考えてよいとすれば、眠る時間を削って仕事に打ち込むことなどは、「緩慢な自殺」であるかもしれない。喫煙・飲酒などもそれであるかもしれない。古くは次のような台詞もある。「名を遂げて生きるか、名を遂げて死ぬか、生れ高き者の選ぶ道はふたつにひとつ」。(5)まことに、それぞれの人がそれぞれの仕方で、「いちばんたいせつなことしか考えない」のであろう。そして、その「いちばんたいせつなこと」が「健康」であるとは限らないのである。(6)

[2-1-5]  以上のように、質についてわれわれはまず、その多様性を銘記しなければならない。思いつくままに挙げてみよう。たとえば、乳房を持っていること、卵巣を有していること。目が見えること。自分の足を持ち、歩けること走れること。美しい声で歌えること、自分の手で文章を綴れること。家族を持ち一緒に暮らせること。職場を持ち職責を果たせること。こうした多くの事柄が、それぞれの人間において、そのつどの仕方で、意味を持つ。言ってみれば、QOLのQ、質とは、それぞれの人間が形成してきた、それぞれの人間の「歴史」である。それぞれの人間の人生のそのつどの時点において、常に、そこでの質がある。病を得てその苦しみの中にあるということさえも、その人の歴史の一頁であるかもしれない。そうであるからには、質を知るのは、知り尽くすのは容易ではない。原理的には、これを知り尽くすのは不可能である。しかし、だからといって質を等閑視するわけにはいかない。これを等閑視することは、その人の存在そのものを大幅に否定することになるからである。

[2-1-6]  ここに病に苦しむ人がいる。その人に対して行ないうる治療法が複数あるとする。そして、たいていの場合現実にそうだが、それぞれの治療法の予後が異なるとする。たとえば、いささかステレオタイプだが、治療法Aを行なえば死が訪れる可能性は皆無と思われるが、四肢の一部を失うとしよう。治療法Bを行なえば遅かれ早かれ死が訪れるだろうが、従来とそれほど変わらぬ生活が営めるとしよう。こうした場合に治療法を決定するためには(治療法が複数存在することおよび予後の相違などの隠匿についてはここでは論じない)、病に苦しむその人の歴史を、その人のライフの質を思うことが求められるだろう。知り尽くすことはできないという限界の存在を承知の上でである。そして、それを思うことができるためには、病に苦しむその人と向き合うことが必要になる。人口に膾炙している言葉を用いれば、理解的なコミュニケーションが必要となる。言うまでもなく、コミュニケーションは人間一般といったようなものを相手にして成立するのではない。患者一般といったものを相手にして成立するのでもない。「その人」と、病に苦しむその人とのあいだに、相互交通として成立するものである。思えば、癒しの術(iatriche techne)であるところの医学医療は、究極的にそして本来的に、他者と、他の人間と向き合うものである。患者とは他の人間であり、しかもそれは、固有の歴史を背景に持った、余人をもって換えることのできない、「個」であるところの、「その人」である。(7)

2-2.共通性の側面

[2-2-0-1]  前節では質の多様性の側面を見た。質を測定し尽くすのは原理的に不可能だろうとも述べた。こうした点は、質が病に苦しむその人のものであることに、質が個別性を持つことに由来する。「その人」という個を規定し尽くすのは極めて困難なのである。これは本質的な事柄である。

[2-2-0-2]  しかしながら同時に、前節で二人の人間のあいだに共通のa\sx\sが存在する場合を想定できたように、複数の人間の質のあいだにある程度の共通性を見つけだすことも可能である。ひいては、人間としてこの世に生きる限りの存在者がかなりの程度共通して持っている複数の事柄を考えることが、可能である。これを、質の共通性の側面と呼べるだろう。実際の医療の現場で注目され、医療者による研究もなされているのは、主にはこの側面だと推察される。(8)

2-2-1.測ること

[2-2-1-1]  平均寿命の伸びや、いわゆる成人病を代表とする慢性疾患の増加という現実などがあって、最近では、疾患を完治させることだけが唯一絶対の目標ではない、この目標を失うわけにはいかないが、それだけになってしまっては不充分である、という考え方が医療者のあいだにも広まりつつある。病に苦しむ人の生活をできるだけ配慮し、病とともに生活するということも配慮するわけである(成人病の場合これが非常に重要になる)。そのような文脈で、QOLが論じられている。あるいは、病が完治したとしても、それ以後社会生活を営むことができなくなったり、いわゆる人間らしい生活ができなくなったりしては不充分であると考えて、リハビリテーションの重要性が主張されている。さらに、終末期医療の重要性も主張されている。これらもQOLの問題の一端だと言える。

[2-2-1-2]  このような場面で語られるQOLは、むしろ「生活の質」と訳されるべきもの、あるいは実際に「生活の充実度」と訳されてもいるものである(これに対して、前節で述べたQOLは言わば「人生の質」とでも訳すべき性格が強いかもしれない)。そして、この場面でのQOLについて注目されることが多く、それを指標化しようとする試みや、測定しようとする試みがすでに行なわれている。指標化し測定しようという限り、共通性の側面に方向が定められることになるのは避けられない。

 [2-2-1-3]  以下に挙げるのは、QOLを測定する新しい尺度を作ることを目指してイギリスで作成された、質を表現するための用語集である。41個の項目があるが、ランダムな順序ではなく、心理学的に重要さを測って、重要な順に並べられているという。(9)

表(これは再現していません)

[2-2-1-4]  これは一例であるが、こういったものを手段にして、QOLを測定することがもくろまれているのである。それぞれの用語について、その患者はどうであるか評価する(数値化する)という具合にすれば、QOLを測定する尺度になるというわけである。

[2-2-1-5]  この表を検討するのがここでの目的ではないが、少し述べておく。まず、枚挙されている項目それぞれは適切なものであろうか。いくつか見ればすぐに分かるように、評価そのものが成立しうるのかどうか疑問の残る項目もある。たとえば「宗教」や「職業」という項目があるが、これについてどのように判定するのだろうか。信仰を持つか持たないかで評価に差をつけるのだろうか。信仰を持つとして、たとえばイギリス国教会の信仰とローマ・カトリックの信仰とを区別し、評価に差をつけるのか。失業中か職場を持つかで評価に差をつけるのだろうか。職場を持つとして、イギリスの宰相であるのとIRAのエージェントであるのとを区別し、評価に差をつけるのか。さらに、心理学的に重要さを測っているとされているが、諸項目の順序は本当に納得できるものなのだろうか。心理学者に尋ねたいところである。あるいはまた、心理学的な順序を医療者が、そして一般の人々が受け入れるのであろうか。受け入れるべきなのであろうか。

2-2-2.QALY

[2-2-2-1]  とはいえ現在では、QOLの測定ということを前提とした上で、つまりQOLの測定値が算出できるとした上で、QALY(Quality adjusted Life Year)、「質に合わせて調整した生存年」なるものも考えられている。日本のある医師が紹介するところによると、これは、より高い質の(より健康な生活を営める)5年間と、より低い質の(生活する上でより重い障害をともなった)10年間とを比較評価して選択するという考え方であり、残っている寿命の一部を失う代わりに、より高い質を手に入れようという考え方だという。(10)これを理解するために、下に簡単なグラフを挙げた。質と生存年とで高さと底辺が決まる方形の面積を比較考量して選択すればよいわけである。言うまでもなく、その面積を算出するためには、質が測定されねばならない。ここでは質が測定可能であることが前提されている。先の表などが役立つわけである。

グラフ(これは再現していません)

[2-2-2-2]  このようなことだけ聞くと、それなりに納得させられるかもしれない。多数のチューブにつながれて(「スパゲティ」というひどい隠語が流通しているらしい)、寝たきりで長期間生きるのは嫌だなあ、と思わされもするだろう。しかし、すでに指摘されているが、QALYが考えられるようになった背景には、医療資源の配分という問題があることを見落としてはならない。より高い質でより長い生存年が実現されるのが理想だが、その逆の場合に対して貴重な医療資源をつぎ込むのは適当でないという考え方が、QALYにはそもそも絡んでいるのである。さらには、比較的長い生存年を期待できる場合でも、質があまりに低ければ、そこに貴重な医療資源をつぎ込むのは無駄であるという考え方も潜んでいるのである。言い過ぎを恐れずに付け加えよう。一国の宰相の1年の生存のために医療資源をつぎ込むのはまだ有益だが、それに比べてストリート・チルドレンの1年の生存につぎ込むのは有益でないという判定さえ、帰結する可能性があるのだ。先の表からすれば、後者はおそらくすでにQOLの値が低いのだから。

[2-2-2-3]  QALYという考え方を提唱し、QALYの発明者(inventor)とも言われているアラン・ウィリアムズの言葉をじかに見ておくのが得策だろう。「QALYは、健康なライフの期待が1年であればそれを1とし、不健康なライフの期待が1年であればそれを1以下の価値とする。これが、QALYの本質である。不健康な人のQOLが悪ければ悪いほど、QALYの正確な値は低い(これが「質に合わせて調整した」という部分が言わんとすることである)。死んでいることの価値がゼロだとすれば、原理的に、QALYはマイナスのことがありうる。すなわち、ある人のQOLが死んでいることよりも悪いと判定されることがありうる。一般的に言えば次のようになる。有益なヘルス・ケアとはプラス量のQALYを生み出すヘルス・ケアであり、効果的なヘルス・ケアとはQALYあたりのコストができるだけ低いヘルス・ケアである。優先度が高いヘルス・ケアとはQALYあたりのコストが低いヘルス・ケアであり、優先度の低いヘルス・ケアとはQALYあたりのコストが高いヘルス・ケアである。」(11)

[2-2-2-4]  さすが発明者と言われるだけあって、ウィリアムズは明確に語っている。「QALYはマイナスのことがありうる」、「ある人のQOLが死んでいることよりも悪いと判定されることがありうる」、と。すると、筆者が上に描いたグラフも、実は説明になっていなかったのである。筆者のグラフではプラスの値しか出ないが、ウィリアムズの考えでは、マイナスの値が出てくることもありうるからである。

[2-2-2-5]  どうであろうか。こうした考え方は、そう簡単に承服できるものではなかろう。われわれが今論じているのはほかならぬそのライフの質であり、ライフの質を測ることである。また、引用テキスト後半に見られる明白なコスト-ベネフィットの考え方によるヘルス・ケアの優先順位のつけかたには、医療資源の配分という難問が明確にあらわれている。筆者は、医療資源の配分という経済的ないし政治的事柄がからんでいることをとがめるつもりは毛頭ない。それは重要な事柄である。しかし、そうであるがゆえにこそ、少なくともそれについて充分な熟慮と議論を経た上でなければ、QALYを受け入れることは留保せざるをえない。少なくとも、そうした検討をせずに耳ざわりのよいと思われることのみ述べるのは、適切でないと思われる。紹介の場がいわゆる啓蒙書であるとしても。

2-2-3.生物としての人間

[2-2-3-1]  さきほどの表に戻ろう。この表は、QOLを測定する尺度の作成を目指している。しかしながら、尺度とはそもそも抽象的なものである。また、この表では、諸項目は心理学的に重要さを測って、重要な順に並べられているという。しかしながら、心理学的な重要さおよび重要さの順序が、病に苦しむその人にとっての重要さおよび重要さの順序をただちに意味するわけではない。確かにこれら諸項目は、人間としてこの世に存在する限りの存在者がそれぞれ持っている集合Qを構成する、共通性の高い要素群であろう。そうしたものを取り出して整理することには、単に理論的であるにとどまらない意味がある。すなわち、現在の医療の現場にとって大いに有益であろう。しかしながら、この共通性の側面に視野が限定されすぎると、問題なのは病に苦しむその人であるという、最重要かつ医療が本来的に根ざすべきところ(12)を捨象してしまうおそれがある。このことは、まず留意しなければならないことである。

[2-2-3-2]  次に、項目の順序に着目してみよう。重要性が低いとされる項目が、ある人間から順々に失われてゆくとする。全体としてだんだんと質が低下してゆくわけだが、それにつれて、残された項目の中に、つまり重要性が高いとされる項目の中に、その人間の身体的側面に関係するものが目立ってくる。身体的ということでどこまで考えるのかという問題があるにせよ、高い重要性とされるところに、明白に身体に関わる事項が多いと言える。これは、人間が生物としてあることに由来する。それゆえにまた、近代的生物学を地盤としている医学医療においてそれらが重要になり、着目される。ある人間のライフの質がすでにある程度低下し、それゆえに、人間が生物として共通に持っている側面が表立ってくるこうした段階では、先の定式の「単なるライフ」というところは、むしろ「生物学的にヒトとして生存する」と言い換えたほうが適切であろう。

「望ましいライフ」=生物学的にヒトとして生存する+(a1+a2+......+a(n−1)+an)
Q(Quality)=(a1+a2+......+a(n−1)+an)
ただしQはすでにある程度削ぎ落とされている。

[2-2-3-3]  今現在の医療の場面では、あるいは今現在の病院という場においては、こう定式化できるような意味でのQOLが、より多く問題とされている。現代の医学はこういう意味でのQOLを中心に据える傾きをかなり強く持つと思われる。あるいは、ある時期以降の医学はそもそもこの傾きも持つ、と言った方がよいかもしれない。筆者は、そうした傾きも持つことは誤りであるとか、改められるべきであるとか言いたいのではない。しかしながら、注意を怠ってはならないと思われることはある。それは、ここで中心に据えられる「身体」が、人間のというよりもヒトの身体であって、「その人」の身体ではなくなっているということである。それぞれの人間のそれぞれの「からだ」から離れたものという性格を、それが持つということである。優れた医学史家である川喜多愛郎の言葉を引いておきたい。「からだ−−人はからだをゆめ蔑しめてはなるまい−−が介在する人間関係、おのずからそこに発生する特殊な性格をもった倫理の場、をわたくしは男女の性と医者・患者関係との二つ−−ともに人が生きることと深くかかわっている−−のほかには容易に思い浮かべることができないのである」。(13)

2-3.極限的な場面

[2-3-1]  再び表を見てみよう。最重要の項目として挙げられているのは、意識喪失である。「意識」を有するか否かが最重要とされているのである。すると、「望ましいライフ」がぎりぎり成立する最低限のところは、意識を有するという要素のみが残っている場面であろう。これを

「望ましいライフ」=生物学的にヒトとして生存する+意識を有する
ただし最低限の望ましいライフ

と定式化できるだろう。

[2-3-2]  すると、この要素を失うならばどうなるか。

「望ましくないライフ」=生物学的にヒトとして生存する

ということになるのだろうか。生物学的にヒトとして生存することが「望ましくない」という形容詞を付されねばならないのだろうか。

[2-3-3]  望ましくないものに対して、われわれは普通、否定的な態度を取る。望ましくない机は使わないようになる、あるいは処分する。望ましくない自動車は、廃車にする。望ましくない学生は、退学させたりする。しかも、こうしたことは特に非難されるべき行ないではない。望ましくない学生を退学させたからといって、それを非難するのは筋違いである。それでは、望ましくないライフに対して、われわれは否定的な態度を取って、それを消滅させるすなわち「殺す」(ここではそれを積極的に行なうか消極的に行なうかは問わない。「死ぬにまかせる」も含めて用いている)ことを行なうのであろうか。そしてそのことは特に非難されるべき行ないではないのだろうか。

[2-3-4]  それとも、「望ましくない」という形容詞が付くにせよ、それは単に「望ましい」ということが否定されただけであって、なお他の形容詞がライフに付せられるのだと考え、それを理由にして、「殺す」ことはしないでおくのだろうか。

「望ましくないが、……なライフ」=生物学的にヒトとして生存する

[2-3-5]  「意識」「殺す」といったものがあらわれてくるこうした極限的な場面では、QOLはまさしく「生命の質」と訳されるべきものになる。現代の医学医療に関して焦眉の問題があらわれてくるのはここであり、そして、生命倫理学において「パーソン論」と呼ばれている議論が問題になるのもここである。ここに存在する具体的事例としては、ヒトの胚、胎児、人工妊娠中絶、新生児、重度の脳障害を持つ新生児、重度の痴呆、いわゆる植物状態(この訳語が一般的だが、考えてみると植物を馬鹿にしたような言葉である)の人間、そしていわゆる脳死状態の人間がある。

[2-3-6]  パーソン論についてここで立ち入って述べることはできないが、その基本的な考え方を紹介しておく。すなわち、パーソン論は基本的に、生物学的にヒトとして生存するということと、道徳的に配慮しなければならない存在者であることとを区別しようとする。言い換えると、ヒトであることと、それを傷つけたり殺したりすることが非難に値するような存在者であることとを区別しようとする。(14)後者がパーソン(person)と呼ばれる。そしてパーソン論は、パーソンであるか否かの明確な線引きが可能だと考えるのであり、どこにその線を引くかが議論される。生物学的にヒトであることはさしあたり容易に確かめうるので、線を引くためにパーソン論は、パーソンであるための条件は何かを確定しようとする。そして、確定された条件を満たさない存在者、生物学的にヒトであるだけの存在者は、傷つけたり殺したりすることも容認できるとされ、それをなにがしかの目的のための手段・資源として利用することも容認できるとされる。そうした議論において常に登場するのが「意識」であり、それにともなって語られるのが「脳」である。

[2-3-7]  しかし、パーソンであるための条件がどうして「意識」であり、それにともなってどうして「脳」が語られるのか。一線を越えれば「殺す」ことが、しかも特に非難に値しないこととして、帰結しうるような場面で、どうして「意識」であり「脳」であるのか。

[2-3-8]  この問いに対しては、当然ではないか、と答えるのがおそらく普通だろう。そう答えて痛痒を感じることはあまりないだろう。たとえば医学医療の伝統において、すでに次のように語られている。

「われわれの快楽感、喜び、笑い、冗談話も、苦痛感、悲哀感、号泣も、ひとしく脳から発するということを、人々は知らねばならない。脳によってわれわれは、とりわけ、思考したり見たり聞いたりするのであって、習俗に従って鑑別したり効用によって感じ分けたりしながら、美醜、善悪、快不快を、識別するのである」(15)

「人間にあっては脳が最大の機能を持つと考えられる」(16)

[2-3-9]  このように、すでに古代ギリシャの昔から、「脳」という一臓器の特権的性格が考えられ主張されていた。そして、ここで述べられる「思考」「快不快」などが「意識」につながりうることは容易に見て取れる。人間にあって最大の機能を果たす臓器は脳であり、脳は意識の座であると考えることは、かなりの程度われわれの内部に根付いている。(17)

  さらに、哲学の伝統において、すでに次のように明確に語られている。

「われわれはパーソンが何をあらわすのかを考えねばならない。私が思うに、パーソンとは、理性および反省の能力を有し、自己自身を自己自身として、異なる時と場所において同一の思考するものとして、考えることができる、思考する知性的存在者である。パーソンはこうしたことを、思考とは区別できないあの意識によってのみ行なうのであり、私には、パーソンにとって意識が本質的だと思われる」(18)

[2-3-11]  パーソンにとって意識が本質的である。ところで、意識の座は脳である。したがって、意識の座である脳がまともに働いていない、あるいはもはや働かないのなら、パーソンではない。さて、ある存在者がパーソンでないのなら、その存在者に道徳的な配慮をする必要はない。その存在者は言わば単なる物件であり、処理・利用が認められる。哲学上の概念と医学上あるいは生物学上の概念を結びつけることには本来十分な注意が必要だが、さしあたりこのようにわれわれも考えることができるだろうし、そう考えてそれほど痛痒を感じずにいられるだろう。それほどにわれわれは、自然科学的ないし医学的言説によって規定されている。

[2-3-12]  だとすればわれわれは、たとえば次のようなことを行なっても、特に非難されるいわれはないだろう。ヒトの胚を新しい治療法の研究や薬品開発や遺伝子研究に利用して、その後捨ててしまう(胚が四分割以前か以後かといった議論にここで触れる余裕はない)。着床後一定期間以前の胎児を破壊する。あるいは、自然流産や人工妊娠中絶で女性の体外に出た胎児を治療法研究などに利用して、あとは生ゴミとして捨てる(実際それは産業廃棄物ではなくて一般廃棄物である)。無脳症の新生児や重度の痴呆老人を死ぬにまかせる。いわゆる植物状態や脳死状態の人間から使える臓器を取り出して利用し、残りは焼却する。筆者は、故意にグロテスクなことを言っているのではない。今述べたことの少なくとも一部は、実際に行なわれている。そして、実際にそれらが行われているのを知ったとき、われわれはそれほどの痛痒を感じずにすませているのではないか。

「望ましくないライフ」=生物学的にヒトとして生存するのみ=意識を持たない=パーソンではない  ⇒  道徳的配慮は不要。殺すことも認められる。利用も。

[2-3-13]  さて次に、「望ましくないが、……なライフ」=生物学的にヒトとして生存するのみという二番目の定式を見ておこう。この場合、事情が若干異なる。これは一種緩和的な定式であり、ある存在者は「望ましくない」ライフでありパーソンでもないが、「……」であるがゆえに、それに対して一定の道徳的配慮を行なう、というのがこの定式の考え方である。生命倫理学の最重要文献の一つを著したエンゲルハートの考え方がこれにあたる。(19)彼は、「道徳共同体の構成員はパーソンである」とする。(20)そして、自己を意識し、理性的で、選択をすることができる存在者がパーソンだとする。彼はこのような意味でのパーソンを「厳密な意味でのパーソン」と呼ぶが、これにさらに加えて、「社会的配慮からするパーソン」あるいは「社会的な意味でのパーソン」なるものを考える。つまり、われわれの定式でいう「……」のところに、「社会的な意味がある」「社会的配慮に値する」といった語が入るわけである。これによって、彼の考えでは、痴呆老人や新生児は、厳密な意味ではパーソンではないが社会的配慮からすればパーソンであるということになり、それを殺すことが道徳的非難の対象となる。それを殺すのはなされるべきでない行為になる。これによって、成人は老いることを恐怖する必要がなくなり、親は自分の子供の生命の安全に不安を抱く必要がなくなる。つまり、言わば社会が安心する、あるいは平和を保持できるのであり、一番目の定式を採った場合よりも、社会にとっての善が増加するのである。したがって、社会的な意味での、あるいは社会的配慮に値するパーソンとは、一般的幸福(general happiness)を旨とする功利主義的な観点の産物である。エンゲルハート自身、「人格の社会的な意味は、第一次的には、功利的な観点からの構成物であることを強調しておかなければならない」と明言している。(21)

[2-3-14]  エンゲルハートの議論は歴史的事例なども多数挙げられる説得的なものであり、彼の言う「社会的な意味でのパーソン」という考え方は、人類社会において実際にかなりの程度採用されてきた(されている)ものだと思われる。しかしながら、そこでいう社会とはどういうものか。それは、厳密な意味でのパーソンによって、ひいては「望ましいライフ」を営んでいるパーソンによって、構成される社会であった。すると結局、そのようなパーソンたちにとって、そして、そのようなパーソンによって構成される社会にとって利益となるがゆえに、「社会的配慮からするパーソン」は保護されるわけである。それゆえ、ここでは一種屈折した仕方で、厳密な意味でのパーソンのステイタスがより高められているのである。

「望ましくないが、厳密な意味でのパーソンたちにとって利益となるライフ」=社会的配慮からするパーソン  ⇒道徳的配慮が必要。

[2-3-15]  先にも言ったように、本節で述べてきたような極限的場面では、QOLはまさしく「生命の質」と訳すべきものになる。実際の医療において、そして、学問の分野としてのみならず広い意味での生命の倫理について、われわれに困難な問題を突きつけるのは、この場面であろう。なぜなら、突きつけられる問題の多くが、まさしく自己意識の有無が議論となり、対処能力(competence)の有無が議論となる、そういうあり方をしている人間に関するものだからである。

3.考察の試み

[3-0]  前節までを通じて、筆者なりのやり方で、QOLの考え方・思想について基本的なところを整理した。散漫さを免れなかったが、問題と思われることもいくつか指摘した。少なくとも筆者には、じっくり考えるべきことが多々存在すると思われる。同時に、道筋を見つけ出すことさえかなり困難だとも思われる。本節では、手掛かりになるやもしれぬと思われることを述べるにとどめざるをえない。

3-1.望ましさ

[3-1-1]  出発点に立ち返ってみよう。1.で、QOLの考え方・思想はことあたらしいものではなく、われわれが日常的に採用している、ものの見方であることを指摘した。ただし同時に、『ムーミンパパの思い出』のテキストを読み直すことで留保もしておいた。もし、前節までの論述を若きムーミンパパが読んだとしたら、どのような感想をもらすだろうか。「そうだよ、その通りさ」とでも言うであろうか。フレデリクソンが読んだとしたらどうだろうか。彼はやはり「ふん」と答えて黙ってしまうであろうか。

[3-1-2]  QOLの考え方・思想は、われわれの日常的な考え方に根を持つ。QOLがもともと持っているこの日常性が、事柄を見えにくくする。日常的なものは自明なものとして受け入れられやすいからである。しかし、まさにそこのところに、黙り込むフレデリクソンのように、慎重さと熟慮が求められるはずではないのか。QOLに関する基本的反省を通じてうかがわれる、「望ましいライフ」と「単なるライフ」の区別という、ライフに対する日常的な態度に問題とすべきところはないのであろうか。

[3-1-3]  なるほど人間は、みずからの素質や才能を耕し育むことを、それらを現実化し開花させることを目標とすべきであろう。(22)多くの事柄を自分のものとして獲得することもその一環であろう。そしてそうした展開や獲得は、確かに充実感や満足を呼ぶであろう。(23)そこまでは、一応、疑問なしとすることができる。しかし、そうした目標が実体化あるいは絶対化されるならどうであろうか。ここではその目標とは「望ましさ」であるわけだが、その「望ましさ」が実体化・絶対化されるなら、それはそれ自身の出発点を、それ自身に至らぬものを、それ自身に反するものを、「望ましくないもの」として疎外・抑圧してしまうのである。むしろ、「望ましさ」とは、カントが言うような意味での統整的(regulativ)なものと解するべきである。すなわち、「望ましさ」とは、その「望ましさ」が出発した、それ自身の地盤と、通過点と、それ自身に反するものとの相対的関係のうちにのみあり、両者のあいだに絶えず反省的ないし解釈的な往復運動がなされる中で、つむぎ出されるものである。「望ましさ」の意味内容は、往復運動においてのみ語ることができるのであり、固定されたものではない。「望ましさ」がそれ以外のものに対して決定的・規定的に働くばかりであってはならない。

[3-1-4]  われわれが現在持っている「望ましさ」とは、いったいどういうものであろうか。「望ましいライフ」というときに、われわれはどういうものをイメージしているであろうか。端的に言ってそれは、「力に満ちた壮年の男性」というイメージであろう。このイメージは、少なくともかつては、いましがた述べたような往復運動がなされる中で形成された。たとえば、近世初頭の思想家フランシス・ベーコンには『時代の雄々しき誕生』(temporis partus masculus,1603)という題名の著作断片がある。ベーコンは、自分以前の時代の人間とその営みを振り返り、またみずからの時代と人間を反省・検討する作業を通じて、「大いなる革新」というモットーのもと、「雄々しさ」によって、彼の時代の人間の「望ましい」姿を提示した。饒舌や論議にのみ陥る小児のようなあり方の革新を求め、生産の能力を持った(おそらくしかし白人の)男性成人の雄々しさを求めた。(24)そして実は、その姿の核としてベーコンが考えていたのが、科学技術的な自然探求であった。それ以後われわれの時代に至るまで、こうした、力に満ちた壮年の男性たる「雄々しさ」が「望ましさ」のイメージの根本に存在すると思われる。QOLの思想の場合は「健常な成人」という語を用いるほうが穏当だと言われるかもしれないが、その語の実質は、「力に満ちた壮年の男性」であろう。若きムーミンパパの「その中心にはわたし自身がいて、もちろん、わたしがいちばん重要なのです」という台詞は、これと響き合っている。

[3-1-5]  しかも、われわれのその「望ましさ」にあっては、ベーコンにはあった歴史的反省のごとき、反省的な往復運動が不十分なように思われる。その意味で、われわれの「望ましさ」たる「雄々しさ」には、ベーコンが提示したときほどの充実が欠けている。少なくともそこには、ベーコンが彼の時代に行なったような、対決・批判を経た上での形成ということが、言わば否定的な媒介が、不足している。そうした直接性に由来する一種の内容的空虚を含んだ「望ましさ」が、決定的・規定的に働くばかりになっている。内容的に空虚であるからこそ、たとえば自然科学的な言説が、似非自然科学的な言説が、さらには単に感受的(pathologisch)な言説が、吟味検討を経ることなく入り込んでくる。そしてそれらが疎外・抑圧を招来しているのではないか。

[3-1-6]  卑近な例だが、そうした内容的空虚さを最も倒錯した仕方であらわしているのが、「健康のためなら死んでもいい」という馬鹿げた台詞であろう。われわれはみずからに以下のような問いを立てたことはあるだろうか(思いつくままに挙げる。すべてを尽くすつもりはない)。健康とはいったいどういうことか?  それはたとえば血中の特定の諸物質の測定によって出される数値なのか?  なにゆえそうなのか?  どうしてそれらを測定せねばならず、どうしてある範囲の数値を健康と名づけることができるのか?  それとも、健康とはみずからの心身が総合的に見て障害なく働いていることか?  だとしたらいったい何が障害なのか?  どうしてそれは障害と見なされるのか?  障害が取り除かれるべきものであることを認めるとしても、どうしても取り除き得ないものが存在するとき、われわれはそれに対していかなる態度を取るのか?

[3-1-7]  反省的往復運動だの対決・批判だのは余計である、もっと現実的に対処することこそ要務である。こうした反論もあるかもしれない。しかしまさにその「現実的対処」こそが問われるべきである。「現実」に合わせた「対処」は、その現実を成り立たしめている価値体系や枠組を追認することに終わりやすい。そのことは、現にこの時代と社会に生きている人間を拘束し疎外する結果に終わりやすい。たとえば、われわれが生きている現在の日本の社会は、いわゆる障害者にとって迷惑な社会でもある。(25)また、年老いた人々にとって迷惑な社会でもある(ageism。「年老いた女性にとって」と言うことができるなら、sexismもこれに加わる)。これらもまさに「現実」なのである。

3-2.からだ

[3-2-1]  2-2-3.の最後で、それぞれの人間のそれぞれの「からだ」ということに触れ、川喜多愛郎の言葉を引用した。もう一度見ておきたい。

[3-2-2]  「からだ−−人はからだをゆめ蔑しめてはなるまい−−が介在する人間関係、おのずからそこに発生する特殊な性格をもった倫理の場、をわたくしは男女の性と医者・患者関係との二つ−−ともに人が生きることと深くかかわっている−−のほかには容易に思い浮かべることができないのである」。

[3-2-3]  まことに、「人はからだをゆめ蔑しめてはなるまい」。それでは、QOLの思想において、「からだ」はどのようなあり方に置かれているか。

[3-2-4]  現在の医学医療が、近代的な自然科学の一領域としてどちらかと言えば遅れてやって来た(「近代的」という語を不用意に用いることが危険を孕むことは承知しているつもりである)、生物学を地盤としていることは疑いない。そうしたものとしての医学医療は、測定・計算・解体・組立てといった手続きによって、それがこととする事柄にアプローチする、あるいは架橋する。こうした側面をフィヒテ流に言うなら、医学医療には「蒼白にして空虚」(blass und leer)なところがある。もちろん、これにより医学医療が大きな進展を達成し、人類に貢献したことは明白であり、それが医学医療の制度化・体制化まで促進したことも明白である。しかしながら、医学医療はこの側面に尽きはしない。すなわち、実践(Praxis)という性格をそれは同時に持つ。そして実践とは、一つ一つの事柄を充分に歩み抜くことである。(26)

[3-2-5]  医学医療が実践という性格を抜きがたく持つということ、おそらくこれがゆえに、特定の自然科学観から見てではあるが、医学医療はときとして、その自然科学としてのステイタスを低く見積もられたりするのだろう。あるいは逆にそれゆえに、また違った観点から見て、自然科学の最も輝かしい分野と見積もられたりもするのだろう。そしてさらに、医学医療に携わる人間に、困難さと輝きをあいともにもたらすのだろう。

[3-2-6]  ところで、医学医療がこととする事柄とは何か?  それは、病に苦しむ人の「からだ」である以外にない。したがって、「からだ」という事柄を、しかも一つ一つの(より適切には、その人その人の)「からだ」を、充分に歩み抜くことが失念されたとすれば、それは大きな損失である。ところが、2-2.以下の諸節を振り返れば、「からだ」からの遊離と言える事態が指摘できるのである。この遊離が、もし川喜多の言うような「からだを蔑しめること」にまでなっているとしたら、どうであろうか。

[3-2-7]  それはまずは、病に苦しむ人をはずかしめることであらざるをえない。そして、はずかしめられた人が告発し抵抗するのは、当然にして正当なことである。そうした告発や抵抗が現に存在してはいないだろうか。

[3-2-8]  それはさらに、実のところ、医学医療が医学医療自身をはずかしめることであらざるをえない。さて、それに対する告発や抵抗が存在しているだろうか。

[3-2-9]  QOLは、医学医療がそれ自身をはずかしめるような事態に陥っているのではないかということを、われわれに示してくれるように思われる。しかし同時にQOLは、そのような仕方で消極的に、そして2-1.で述べたようなことを見せてくれることでは積極的に、医学医療が失念してはならない事柄をわれわれに示してくれるように思われる。

(1)現在の日本語では「医学」と「医療」という言葉が区別されていると思われる。「……日本では、医療は自然科学の一分野である医学の社会的応用である、という定義が一般的である」らしい(中川米造『素顔の医者  −曲がり角の医療を考える−』、講談社現代新書、1993、10頁)。
  筆者はこうした区別は採らない。まず、科学史的な観点から見て、こうした区別には疑問がある。たとえこうした区別を立てることができるとしても、それは永きにわたるヨーロッパの癒し(medicor)の営みの自発自展に由来するものであって、区別項の統一性あるいは等根源性が見落とされてはならない。そして、ヨーロッパでは、見落とされていないようである(上掲書62頁以下を是非参照されたい)。日本は、その自発自展の一時期の形態を特定の仕方で採り入れた。おそらくそれゆえに、一種の偏りがある。もしこうした区別を先に、あるいは固定的に立ててしまうと、「癒しの術」(iatriche techne)であるこの営みの大きな部分を隠してしまうことになる。そのことは、ある意味では最も自然科学らしい自然科学であるこの営みの大きな部分を隠すことに通じる。しかし、常に「医学医療」とするのも現在の日本語では異様なので、以下では場合によって、「医学」「医療」「医師」「医療者」などの言葉も用いる。その際も上記の区別によっているのではなく、統一性・等根源性を念頭に置いている。
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(2)講談社文庫、108頁以下(Tove Jansson; Muminpappans Memoarer. 1968)。
  なお、このテキストの存在は、広島大学総合科学部助教授である品川哲彦氏に以前教えていただいた。日頃の学恩を含めて感謝の意を表したい。
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(3)QOLと区別して論じられることの多いSOL(sanctity of life)の重要性を主張する論者さえ、次のように語る。「われわれが生命を求めるのは、生命によってなされうるもののためであり、それが少なくとも耐えられるものであり、楽しみうるものであり、価値のあるものだからであって、あるがままの生命それ自身のために生命を求めているわけではない。」E.W.カイザーリンク「生命の尊厳と生命の質は両立可能か」加藤尚武・飯田亘之編『バイオエシックスの基礎  −欧米の「生命倫理」論−』(東海大学出版会、1988)に所収。10頁。(Edward W. Keyserlingk: Sanctity of Life and Quality of Life - Are They Compatible?.1983)
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(4)この定式で、a1+a2+.....という具合に質を離散的ないし不連続に表現すること自体に、問題があるかもしれない。また、この定式は加算的あるいは拡大的な性格を持たざるをえないが、この点にも問題があるかもしれない。しかし、QOLの考え方はこうした傾向を持つ。獲得主義あるいは能力主義とでも言おうか。ここから次のような言葉へは実はそれほど遠くない。「……病気は人々の力ではつかまえがたい、また我慢するか見棄てるかしかできない一つのかたまりであって、たえず邪魔をし、けっして手助けしないのである」(ミシェル・フーコー『狂気の歴史』、新潮社、1975、434頁でのココーの引用)
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(5)ソポクレス『アイアス』479。「名を遂げて」と訳したのはkalos。「立派に」「美しく」などとも訳せる。英語、ドイツ語では、nobly,ruhmlichなどと訳されている。
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(6)医療の場面では致し方ないことなのかもしれないが、「健康」は一つの価値なのであって、それをただちに最重要の、あるいは絶対の価値とすることはできない。註11)で挙げるクリスプは「他の諸価値を犠牲にして健康をあまりに強調する」(an over-emphasis on health, at the expense of other values)ことを問題点として指摘している。
  ここでカントの言葉を思い起こしておくのも一策であろう。「……権力や富や名誉、それどころか健康や、幸福という名で呼ばれる全く安寧で自分の境遇に満足している状態ですら、そうした幸運の恵みが心に及ぼす影響と、それとともにまた行為の全原理とを規正し、それらを普遍的に目的にかなうものとする善き意志が存在しない場合は、人間を奔放にし、それによりしばしばまた、高慢にする」(I.Kant: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten. Akademie Ausgabe, Bd.4. S.391.  岩波文庫『道徳形而上学原論』22頁以下。ただし上記訳文は筆者による)
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(7)「経験的の事実としては、病気は何よりもまず人の悩み(suffering)の一つ、仏教的な用語をかりて言えば苦の世界の中の病苦である。ところでそれが人の悩みであるからには、たとえば一家の生計を担う責任をもった結核症患者の悩みは、単に結核菌感染に由来する身体的(ソーマティック)な苦痛だけではなしに、それをめぐるその人の生活史と存在の全体にかかわっている。ひっくるめてその悩みをカヴァーし、それを除くために適切な助力を提供することこそ、医療という技術の究極的に目指すところである」(川喜多愛郎『近代医学の史的基盤』下巻、岩波書店、1977、1215頁)。
  さらに、次の発言を見られたい。「患者にとって病気は私だけのものなのに、私たち医者はあなたたちという扱いをしてしまうんです。反省しています」(永六輔『大往生』、岩波新書、1994、46頁。なお、原文にある強調は省略した)
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(8)国立循環器病センターの萬代隆を代表とするQOL研究会が、QOLの啓蒙書シリーズを出版している。以下でその第1巻(『Quality of Life  −QOLのめざすもの−』リブロ社、1990)から引用も行なう。
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(9)『Quality of Life −QOLのめざすもの−』(リブロ社、1990、225頁)
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(10)同上、222頁。紹介者は医師の藤田晴康。なお、同書223頁に藤田による説明のためのグラフがあるが、筆者の見るところ、説明になっていない。
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(11)Alan Williams: The Value of QALY's. in Health and Social Service Journal (18 July 1985)
  QALYをめぐる議論については、たとえば、"Philosophy and Medical Welfare" ed. by J.M.Bell and Susan Mendus. Cambridge UP. 1988に収められているM.Lockwood: Quality of Life and Resource Allocation., J.Broome: Good, Fairness and QALYs., J.Harris: More and Better Justice.の三論文や、"Medicine and moral reasoning" ed. by K.W.M.Fulford, G.R.Gillett, J.M.Soskice. Cambridge UP. 1994に所収のRoger Crisp: Quality of life and health care.を参照されたい。引用したウィリアムズのテキストが何度も取り扱われている。
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(12)すでに2-1.の最後で同じようなことを述べた。そことほぼ同様にここでも筆者が「医療が本来的に根ざすべきところ」という表現を用いるのは、ヒポクラテスを念頭に置いているからである。『流行病機戮覆匹妨られるその徹底的な臨床の精神を、あるいは、「人への愛のあるところ、いつもまた、学術(テクネー)への愛がある」という言葉を見よ。なお、ヒポクラテスの医学医療については、川喜多愛郎『近代医学の史的基盤』(上卷、岩波書店、1977)の論述が優れている。
  もちろん、医療がそれに尽きない側面を持つこと、つまり、衛生や予防といった場面であらわれるような、医者-患者の関係に尽きない社会的側面を持つことは承知している。その上で、「本来的に」という言葉を用いている。
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(13)川喜多愛郎『近代医学の史的基盤』下巻、岩波書店、1977、1218頁。戻る

(14)『脳死の人  −生命学の視点から−』(福武文庫、1991)をはじめとする諸著作で生命の倫理について幅広く発言している森岡正博は、最近、QOLの思想・考え方を「生命の区別」という言葉で表現している(1994年6月26日の京都生命倫理研究会での森岡の発表による)。パーソン論が問題とされるような局面では、QOLはまさしく生命を区別する方向で、あるいは、生きられる者を選別する方向で働くから、森岡の表現はそれをあからさまにする点で鋭い。しかし、2-1.で述べた多様性(個別性)や、2-2-1.で言及したリハビリテーションなどを考慮すると、QOLが必ずしもそういう「区別」の方向でばかり働くとは言えないだろう。少なくともQOLによって、そうした問題が照らし出されると思われる。また、SOLの考え方・思想がそうした問題を照らし出すとも思えない。
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(15)ヒポクラテス『神聖病について』17節。(The Loeb Classical Library "Hippocrates II", p.174f.。ヒポクラテス『古い医術について』岩波文庫、53頁以下)
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(16)同上19節。(Loeb II, p.178f.。岩波文庫、55頁)。
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(17)もちろん、こうした言わば脳中心主義の伝統に並んで、それがわれわれをどれほど規定しているかここでは問わないとして、心臓中心主義の伝統も歴史には存在する。詳細な調査と考察を経た上で言うべきことであるが、アリストテレスを後者と見なすことができるだろう。彼は意志と魂の所在を心臓に求めているように思われる。
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(18)John Locke: An Essay concerning Human Understanding. H.Nidditch版 p.335. 本来は、ロックがこのような文章を記すに至った論述の全体を追跡することが必要であり、それがなければこの文章の言わんとすることを充分に汲み取ることはできないのだが、ここではそれは断念せざるをえない。
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(19)H.T.エンゲルハート『バイオエシックスの基礎づけ』の第四章(加藤尚武・飯田亘之監訳、朝日出版社、1989)。(H.Tristram Engelhardt, Jr.: The Foundations of Bioethics. 1986)。
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(20)同上130頁。
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(21)H.T.エンゲルハート「医学における人格の概念」(加藤尚武・飯田亘之編『バイオエシックスの基礎  −欧米の「生命倫理」論−』、東海大学出版会、1988に所収。29頁)(H.Tristram Engelhardt,Jr.: Medicine and the Concept of Person. 1982)
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(22)I.Kant: Grundlegung zur Metaphysik der Sitten(『道徳形而上学の基礎づけ』)を参照されたい。
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(23)カントにおいても、独特な意味においてではあるが、「満足」(Zufriedenheit)の感情を指摘することができる。
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(24)ベーコン『大革新』序言(岩波文庫『ノヴム・オルガヌム』20頁以下)
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(25)本稿をいったん擱筆したあと、次の題名を持つ本が出版された。松兼功『障害者に迷惑な社会』(晶文社)。遺憾ながら筆者は未見。
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(26)A.バルッツィ「実践哲学とは何であるか」(『倫理学の根本問題』、晃洋書房、1980に所収)を参照されたい。(Arno Baruzzi: Was ist praktische Philosophie. 1976)
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後記……本稿は部分的に、平成5年度および6年度の和歌山県立医科大学進学課程の授業「医学概論」で、筆者が話したことをもとにしている。


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