「技術の本来の空虚さ」

[0-1] しかし不正な作品、さらにその技術そのものが、しばしばミノス(1)によって追及される。すなわち、それを有罪とし、その使用が民衆によって禁止される。しかしそれにもかかわらず、技術は隠され保存され、いたるところに隠れ場所を持っている。……(中略)……そして確かに真実のことだが、要するに技術は、法の手綱で抑制されるというよりは、その本来の空虚さによって、虚偽であることが証明されると言わなければならない。
Artificia autem illicita, atque adeo artes ipsas, saepius persequitur Minos; hoc est, leges, quae illas damnant et earum usum populis interdicunt. Nihilominus illae occultantur et retinentur, et ubique et latebras et receptum habent; ...... Et certe si verum omnimo dicendum est, non tam feliciter legum fraenis coercentur, quam coarguuntur ex vanitate propria.

[0-2] 右は、フランシス・ベーコンがその著作『古代人の知恵』(1609)第19節で、ギリシャ神話の天才的機械技師ダイダロスに関する伝承をもとにして、技術についての自己の洞察を記した文章の一部分である(2)。以下の筆者の論述は、ベーコンのこの文章に見られる「本来の空虚さ」という文言に着目して、「技術」という大きな事柄について拙い考察を巡らすものである。そのためにまず、ベーコンの思想の概略を技術に関係するかぎりで述べることからはじめる。

一、

[1-1] ベーコンについては、たとえば次のように述べられるのが一般的であろう。近世のあけぼのの時代、ベーコンは人間の技術と知識の力にたいする絶大な信頼を表明した。たとえば彼は遺稿『ニュー・アトランティス』において、現代の科学技術のあり方を明瞭に先取りする一大科学技術センターの姿を描いた。彼はわれわれが生きるこの時代にとっての脅威となっている科学技術の姿を最初に描いた人物の一人である、と。

[1-2] 確かにベーコンは現代の科学技術像を予見した人物の一人だと言える。しかし、ベーコンにおける人間の力への信頼が「絶大」であったかどうかは疑わしいし、人間王国の拡大という目標がその力によって容易に達成できると彼が考えていたかどうかも疑わしい。ベーコンの思想は必ずしも単純で一筋縄のものではない。彼は近世のあけぼぼの時代に生きた人である。彼のすべての論述において念頭にあったのは、それまでの時代の人間のあり方(学問および技術的営みの姿)を批判し、人間が、それまでよりもより十全に人間として存在することができるように、人間のあり方ないし世界における人間の態度を根本的に変革することであった。われわれは彼の著作全体を貫く「革新」(instauratio)のトーンを、それが置かれた状況とともに、そしてその真剣さのままに聞き取るように努めねばならない。さもなければ、彼の思想を平板化することになってしまうであろう。

二、

[2-1] それでは、それまでの時代の人間のあり方はベーコンの目にどう映ったのだろうか。大学に代表され公式に認定された、いわゆる「学問」の姿については、たとえば次のように彼は語る。「主としてギリシャ人から取られたそうした知恵は、何か知識の少年期にあるように見え、小児に固有なものを持つ。すなわち饒舌にはすぐ間に合うが、生産には役立たず未成熟だということである。というのも、それは論争には効果があるが、実地の仕事には無能だからである」(3)。そういう学問は幾世紀にもわたって「動きなくほとんどその場に留まり、また人類にとって価値ある増進もしない」(4)

[2-2] こうした評価はわれわれが現在も持っている歴史像に意外に近い。もちろん哲学史研究の立場からは、中世の哲学あるいは神学に対し「小児」(puer)という言葉を用いることには抵抗があろう。しかし次の点には異論を唱えがたいであろう。すなわち、そうした「学問」としての営みは「生産には役立たず」、その点で「無能」だったのである。それゆえにベーコンは「小児」という言葉を用いるのである。さらに、そうした営みは「神像のように崇められ讚えられるが、前進させされはしない。いやときに最初の創始者において最も栄え、そのあと衰退することもある」(5)のだったのでもなかろうか。少なくともベーコンの目には、いわゆる「学問」の営みは以上のように映ったのであり、そのような像が全くの誤りだとすることはできないと思われる。

[2-3] このような「学問」の営みにくらべ、ベーコンによれば、「機械的技術においては反対のことが起こるのをわれわれは見ている。それは何か生命の息吹にあずかっているかのように、日々に増大し完成してゆき、最初の創始者においてはたいてい粗削りで、ほとんど目ざわりかつ不格好に見えるのが、のちには新たな力と、ある種の釣り合いを獲得する」(6)。「学問」に対するものとはまさに正反対であるが、技術的営みについてのベーコンのこうした評価は、歴史的研究によっても裏付けられることである。実際、当時の技術者たちの中には(ベルナール・パリッシやロバート・ノーマンなど)「主としてギリシャ人から取られた」技術的営みに対する軽蔑に反抗しそれを脱して、自分たちが日々経験と熟練を積み重ねつつ行っている営みの、十分な意義を主張するものがあらわれていた(7)。もちろんその前提として、リン・ホワイト・ジュニアによって強調され、ようやく一般の常識ともなってきたことであるが、中世を通じて技術が発展してきていたという事実(8)も忘れてはならないだろう。そしてこの発展の事実は、大学に代表される学問とはほぼ無関係に生じたことなのである。ベーコンはこのような歴史的状況を踏まえて、右の評価を下しているのである。

[2-4] このような歴史的状況にあって、ベーコンがまず第一に旨としたのは、一方における「小児」的な学問の営みと、他方における「生命の息吹にあずかっているかのように日々増大する」技術的営み、この二つの分裂と対立を批判し拒否することである。大きく言えば、理論と実践が分裂し対立している状況とそれを引き起こしている人間のあり方とを批判し拒否することである。したがってベーコンの語る言葉の矛先は、分裂し対立している二つのものそれぞれに向けられる。

[2-5] 彼によれば、これまで学問に携わってきたのは経験派の人間かドグマ派の人間かのどちらかであった。前者はアリのようなものであり、ひたすら収集しては使用する。後者はクモに似ており、自分自身の内から出して網を作る。哲学の(学問の)真の仕事はこのどちらのようであってもならず、庭や野の花から材料を集めるが、それを自分自身の力で変形し消化する、ミツバチのようでなければならない。哲学の真の仕事は、精神の力だけに基づいたり、あるいは主として精神の力に基づいたりするようなものであってはならないし、また、自然誌および機械的実験から提供された材料を、そのまま記憶の内に蓄えることであってもならない。変化させられ消化されたものを知性の内に蓄えるのが、哲学の真の仕事である(9)

[2-6] このようにベーコンは、単独の経験的能力(アリ)に対しても単独の知性的能力(クモ)に対しても不十分さを指摘し、真の学問は両能力を分裂させたり対立させたりしてはならず、両能力を緊密に結合して仕事をするべきなのである、と主張する。「経験的能力と理性的能力(両者のあいだの身勝手で不幸な離婚と離縁状が、人間一家のあらゆるものを混乱させたのだが)のあいだの真の合法的な婚姻」(10)を主張するのである。彼によれば、ミツバチのように緊密な結合を失わずにいてこそ、本当に真の学問なのであり、世界における人間の本当に真の態度なのである。そこから望ましい文化が生まれるのである。ちなみに、カントが『純粋理性批判』第二版の巻頭に『ノヴム・オルガヌム』の一節(11)を掲げて、ドイツの哲学者の中でおそらく唯一人ベーコンを評価するのは、ベーコンのこの主張のゆえにであろう。カントを経験論に分類することが明らかな誤りであるのなら、ベーコンを経験論者とすることもやはり誤りであろう。

[2-7] この主張からして、ベーコンは、いわゆる純粋な理論ないし真理を経験ないし実地より優位に置くこともなければ、逆に後者を前者より優位に置くこともない。むしろ両者は同一のものである。

[2-8] 「徴証(signa)のうち、成果から得られるもの以上に確実で卓越したものはない。というのは、成果と見いだされた制作こそ、哲学の真理性に対して言わば担保者であり保証人だからである。……(中略)……宗教の場合に、信仰を実地で示すよう警告されるごとく、同じことは最もよく哲学にも適用される。すなわち、これも成果から判断され、実のないものはくだらないものとされるのである」(12)。実地や成果から離れた、純粋なあるいは高尚なと称される真理や理論、これをベーコンは引き降ろす。かかる「小児」のような営みが独占的に唱える真理性を批判して、それを経験や実地との関係の内に置くのである。「担保者であり保証人(sponsores et fidejussores)」という言葉があるが、これを誤解してはならない。それは決して真理を経験や実地に従属させることを意味しない。「実地そのものは、生活の快適さによる以上に、真理の保証として(quatenus sunt veritatis pignora)、より価値あるものと考えられねばならない」ともベーコンは言うからである(13)。「生活の快適さ」や有用性を真理や理論に優先させるというのはベーコンの考えではない。むしろ理論や真理と経験や実地とは、相互にその存在と価値を、その意義を保証しあうのである。「一方は能動的であり他方は観想的であるこれら二つの方向は、同じ一つの事柄である。実地において最も有用なものは、学知において最も真なるものなのである」(14)。ベーコンの「革新」は、彼の以上のような基本的主張に存する。

[2-9] ベーコンは「事物の本性は、その自然の自由な状態のもとでよりも、技術の圧迫を通じて(per vexationes artis)の方が、より多くあらわれる」と語る(15)。これは先のミツバチの比喩にあった、「変化させ」「消化する」という表現の内容をあらわす文章であるが、これも右に述べたような彼の基本的主張と連関させて理解しなければならない。つまりこの文章は、事物に対する「主としてギリシャ人に由来する」態度への、観想的な態度への批判であり、それに対する代案なのである。観想的な態度だけに事物の真の姿を洞察するための特権的地位を認めるそれまでの考え方をベーコンは拒否し、むしろ実践的制作的な態度をここでは強調しているのである。ベーコンの印象的な比喩を引用しておこう。「市民生活において、人間各自の知能および心や感情の隠れた動きは、人間が困難の内に置かれるときに、他の場合よりもよりよく発見されるわけだが、これとちょうど同じように、自然の隠されたものも、それが自分の道を進むときよりも、技術の制約のもとにあるときの方が、より大きくあらわれるものなのである」(16)。ここでの重点はあくまで事物の隠れた真相を洞察することである。「技術の圧迫」はそのための方法なのである。「技術の圧迫」という言葉や実践的制作的な態度の強調は、事物に対する暴君的態度や魔術的態度をただちに意味するのではない。

[2-10] 以上のようなベーコンの基本的主張を、別の観点から言い換えてみよう。さしあたり現在でも一般にそう思われているのに合わせて、「科学」と「技術」という言葉が別のものをあらわすとして言うと、ベーコンが拒否し批判したのは、この二つの言葉を分裂させ対立させることそのものである。そして彼の基本的主張によれば、「科学」と「技術」とは相依相属する。両者を分裂させ対立させて、一方を他方より優位に置いたりすることから、さまざまの不十分さや不都合が帰結する。つまりベーコンが「革新」として主張したのは、「科学と技術」ではないし、「科学・技術」でもなく、実は「科学技術」である。テクネーとロゴスが一体化したものという意味でのテクノロジーである。したがってまた彼においては、現在でもしばしば主張される「技術は科学の応用である」という命題は成立しない。科学者は何か知的探究心だけで動いており、物事の原理を見いだし理解すればもうそれでよいが、技術者は何か役に立つとか金銭が得られるとかいった目的で科学者の発見した原理を応用するといった考えた、あるいは「発見家(Entdecker)」と「発明家(Erfinder)」を区別する考え方、こういう考え方やこういう人間のあり方こそが、ベーコンの批判の対象なのである。このような分裂した人間のあり方は、人間のあり方として不十分であり、それらは統合されねばならないと彼は主張するのである。

[2-11] 「技術は科学の応用である」、「科学と技術」、「科学・技術」といった表現で主張されていること、これはベーコンの基本的主張と異なるのみならず、ベーコンの時代以降の歴史的事実とも大きく異なる。現在でも科学史と技術史とは別々のものとして扱われることが多いが、それにもかかわらず、近世以降の歴史の流れの基本線としては、科学と技術は相互に関係しつつ、相互に補い合いつつ展開してきた。科学がなければ技術はなかったろうし、技術がなければ科学はなかったのであり、互いが互いを必要としてきた。現代の世界と人間にとって問題であるのも、そうやって展開してきた「科学技術」である。もちろん、右の三つの表現を歴史および事実を述べるものとしてではなく、規範的言明として、「べきである」として語るというのなら話は別であろう。しかしそれならばそれで、なにゆえにそう語るのかが問われるべきである。あるいはそこには、ベーコンならば承認しないような何らかの価値判断が、あるいは意志が働いているのかもしれない。しかしこの点については本稿で立ち入ることはできない(17)

三、

[3-1] ベーコンが考え主張したのは、以上のように、「科学技術」と一息に言わねばならぬようなものであった。そのようなものの遂行の理想的な姿は、遺稿『ニュー・アトランティス』においてミュートスとして描かれている。よく知られていることであろうから、かいつまんでその姿を述べておく。

[3-2] 未知の島国ベンセレムにおける「光明」とも言うべき「ソロモンの家」別名「六日間の御業の学寮」は、深く巨大な洞窟をはじめとして数学研究所や感覚錯誤の研究所にいたる数多くの研究所と設備施設を持つ。そこには、外国に渡ってあらゆる実験に関する資料を持ち帰る「光明の商人」と呼ばれる者たちをはじめとして、実験による発見から一般的命題(axioms)やより大きな洞察に高める「自然解釈者」と呼ばれる者たちにいたるまで、経験的実験的データを収集する者たち、実験を行う者たち、一般的命題を引き出す者たちなど、それぞれに役割を持った数多くの研究者がおり、その努力と勤勉を積み重ねている。しかも、それぞれの苦心による仕事を考察するための会議が何度も行われ、協力と一体性の中で、一挙に飛躍するのではなく一歩一歩、「一般的命題」すなわち事物の真相の洞察に近づいていく。つまり、そこで行われる営みは決して一個人のひらめきとか天才の努力とかによるものではなく、多くの人々の力と才知を結集して(つまりは経験的能力と知性的能力とを結合して)行われる共同(協働)なのである。

[3-3] さらに、「会議をして、今まで発見した発明や経験の中でどれを公表するか、どれを公表しないかということを考える。秘密にすることが適当だと思われるものは、これを隠すために、秘密を保つ宣誓を皆で行う。もっとも、それらのうちある種のものを国家に対して明かすこともあるが、明かさないものもある」(18)と言われている。つまり、研究および研究の成果は人々にとって有益となるように公表されるのが原則であるが、人々の安寧に有益とならないものは秘密に、国家に対してさえ秘密にされるのであり、この点で、研究に携わる者たちの道徳的社会的見識が示唆されているのである。

[3-4] そして、この「ソロモンの家」の「目的は、事物の諸原因や秘められた運動についての知を獲得し、人間王国の領土を拡大して、可能なありとあらゆることを成し遂げること」である(19)

[3-5] ここでもう一度言っておこう。「人間王国の領土を拡大して、可能なありとあらゆることを成し遂げる」というこの目的は、すでに述べたことからして、知識や理論を応用することに基づくのではない。また、その「拡大」と「成し遂げ」は、万物に対する人間の暴君的魔術的な振舞いをただちに意味するのでもない。加えて、『ニュー・アトランティス』がミュートスであることを思い起こさねばならない。「ソロモンの家」の研究体制は、共同によって行われる研究の理想像(現在でも理想像だと言えるだろう)を描いており、その像はのちにロイヤル・ソサエティやアカデミー・フランセーズが追求したものでもあるのだが、これをそのように理解するだけではいまだ不十分と思われる。さらに立ち入って、「ソロモンの家」全体を言わば一人の人間と解し、その体制を、世界における人間の理想的な(革新的な)あり方を描くものと解釈することが許されるであろう(20)

四、

[4-1] それでは、冒頭に挙げたベーコンの文章に目を向けてみよう。もちろんそこで言われている「技術」も、「科学技術」と一息に言うべき意味での「技術」だと考えられねばならない。

[4-2] 「不正な」技術は「追及され」、「有罪とされ」、「禁止される」が、こうした技術はそれにもかかわらず「隠され保存され」、「いたるところに隠れ場所をもっている」と言われている。ここで技術を追及し、有罪を宣告し禁止するのは、誰でもよいような無記名の一個人ではなく、国王ミノスすなわち法であり国家権力であるし、また、民衆すなわち市民たちである。ところが、それらが投げかける、言うならば否定の網の目から、こうした技術は逃れることができる。いや、それは隠れ場所をもつゆえに、否定の網の目にはかからない。これに応じて、次のように考えねばならない。ソロモンの家においては、「秘密にしておくことが適当だと思われるもの」すなわち人々の安寧に有益とならないものは、それを「隠す」のであり、それを「国家に対して明かさない」こともあると言われていたが、この「隠す」という決定(もちろんこの決定は一個人が下すのではなく共同で下される)が下された技術ですら、逃れ隠れる場所を持ち、隠され保存されるのであると。

[4-3] ベーコンは技術に対して楽観的な人物ではない。彼はこうした事態を洞察していたのである。技術は、「法の手綱」によっても、国家権力の手綱によっても、市民たちの手綱によっても、「抑制される」ようなものではない。まして、一個人の手綱で操りうるものでもない。

[4-4] 彼のこの洞察は、現在盛んに行われている技術評価あるいはテクノロジー・アセスメント(Technikbewertung, technology-assessment)の議論に対し大きな問題を突きつけるものであろう。大きく言ってこの議論には、技術に対し倫理的あるいは個人的なコントロールおよび責任(ethische od. individuelle Techniksteuerung und -verantwortung)によって立つ考え方と、技術に対し政治的あるいは制度的なコントロールおよび責任(politische od. institutionelle Techiniksteuerung und -verantwortung)によって立つ考え方とがある。そしてそれぞれについて擁護や批判が、あるいは両者の対立や総合などが論じられている(21)。この議論全体に一つの大きな方向を認めることができ、それは次のようにまとめられうる。すなわち、技術に関する評価やコントロールや責任は、伝統的には個人の人格に、個人の倫理に帰せられてきた(たとえば欧米の技術者団体の倫理綱領はたいていこの考え方をとっている)。しかし、現代の技術が及ぼす影響の時間的空間的な巨大さと現代の技術的営みの集団的遂行体制のゆえに、もはや個人の道徳観や倫理や責任によって技術に面するのでは立ち行かない。したがって、政治的あるいは制度的な評価やコントロールを、集団的な責任を考えねばならず、それなくしては不十分である。責任および責任主体をこれまでよりも拡大しなければならないのである−−このように論じられているのである。

[4-5] ところが、科学技術の最も早い唱導者の一人であるベーコンによれば、技術は政治的あるいは制度的なコントロールの網の目に捕らえうるようなものではない。また、道徳的社会的な見識をそなえた人間の集団によっても、抑制できるようなものではない。一個人の責任やコントロールによるのも有効でないと彼が考えていることはここから容易に推定できる。結局のところ、ベーコンによれば、技術は「その本来の空虚さによって、虚偽であることが証明される」のである。

[4-6] 技術は人々の安寧にとって有益なものでなければならず、人間王国の領土を拡大し可能なことを成し遂げるという目的のためのものであるはずだった。そのような技術に、いま右に述べたような性格がある。本稿が最後に目指すのは「技術の本来の空虚さ」を見極め考えることであるが、このために、一歩退いたところに考察の視線を注いでみよう。するとそこに見て取られるのは、技術に対する一定の理解がすでに存することである。つまり技術は目的のための手段として、道具として捉えられている。いわゆる「技術の道具的理解」がベーコンにおいても存するのである。

[4-7] 「技術の道具的理解」は現代においてもおそらく技術理解の主流をなすものだろう。たとえば、ドイツにおいて現在精力的に技術哲学の仕事を進めているローポールは、現代の技術概念を次のように定義することを提案している。「技術には次のものが包括される。1利益を指向する人工的で対象的な形成物(人工物もしくは事柄の組織体Sachsystem)の集合。2事柄の組織体がそこにおいて成立する人間の行為および工夫の集合。3事柄の組織体がそこにおいて使用される人間の行為の集合」(22)。この定義の試みは、事柄の組織体という上位概念を用いることによって、具体的な事物としての道具や機械のヴァリエーションに左右されることを避けているし、具体的な道具や機械が現実に存在するとは限らない現代技術(たとえば情報に関する技術)のありさまをも捉えうるものになっていると言える。それでもやはり基本的には、技術を道具的に理解するものだと言えるだろう。技術の道具的理解はほとんど自明のものかとさえ思われる。ところがすでにハイデガーは、その意味深くかつ難解な技術論において、この理解をはっきりと批判していた。「技術の正当なる道具的規定は……(中略)……いまだなお、われわれに技術の本質を示さない」(23)。ハイデガーの技術論は、真性(Wahrheit)と正当性(Richtigkeit)との区別や、歴運(Geschichte)という考え方など、彼独自の思索と深く関係するゆえ、本稿で主題的に立ち入る余裕はない。さしあたりここでは彼のこの言葉を、「技術の道具的理解」を考察するためのきっかけとして受け取っておきたい。

[4-8] 「道具」とはいったいどのようなものであろうか。ワープロであれ自動車であれ、「道具」は、さしあたりは広く「物」に含めることができるが、しかしそれに尽くすことが到底できないあり方をただちに示す。「道具」にあたるドイツ語はWerkzeug であるが、その基幹部分 Zeug は、もともと Mittel zum Ziehen (引き出すための手段)ということを意味し、言葉の上から見てもすでに、たんなる「物」であることには尽くされない。言葉ではなく事柄の上から言っても、「道具」はまず第一に、「……のために使われる」ものとして特徴づけられる。しかも優れた意味では、「私が……のために使う」ものである。「誰か他人が……のために使う」ものは、私にとっては「道具」ではなくたんなる「物」でありうるからである。したがって道具は、私の行為連関の中に、あるいは私のパースペクティヴの中に存在する。そして、道具が道具として最も優れたあり方をするのは、私がそれを使っておりしかもそれを十二分にコントロールしているとき、完全に私の意のままにしているときである。私がそれを「私のもの」として、言わば「私の身になじませている」ときであり、それが「私の身についている」ときである。このとき道具は「物」たることから最も離れたあり方をする。

[4-9] 逆に、こうした最も優れたあり方から逸脱していけばいくほど、道具はしだいに、たんなる「物」の相を帯びていく。もしも私にとっての不都合や害がそれによって生じてくるならば、それはたとえば「異様な物」にさえなることができる。ただし、道具がそのようにして「物」になっていくにつれて、私が「道具」との関係を希薄なものにしていくとはかぎらない。道具が「物」の相を帯びていくにまかせ、道具との関係を切り離すとはかぎらない。むしろ私は、それを道具としてコントロールしようと欲するであろう。道具が私のパースペクティヴから脱する度合が高まるほど、私はそれを取り戻し意のままにしようと欲するであろう。いや実は、道具が最も優れたあり方をするときのことを顧慮するならば、次のように言わなければならない。すなわち、コントロールしようと欲することそれ自体が、道具が「道具として」存在する度合の低下を、たんなる「物」の相の出現を、もはや十分な意味で道具ではないことを、意味するのである。

[4-10] ソロモンの家では、経験的能力と精神的能力とを密接に結び合わせつつ、努力と勤勉を積み重ね、一歩一歩と進んでいくやり方で技術が展開されていく。そのような技術であっても、隠さねばならぬものが、秘密にせねばならぬものが生まれてくる。それは研究に携わる者たちの会議や彼らの道徳的社会的見識によって、あるいは法や国家権力によって、あるいはまた市民たちによって、隠されたり有罪とされたり禁止されたりしたとしても、抑制しうるものではない。つまりそれらは今列挙したさまざまなコントロールに、有罪や禁止という強い否定のコントロールにさえ、制御されうるものではないのである。だとすると、技術そのものが最初から、そもそも「道具」としてではなく「物」として、場合によってはたとえば「異様な物」として存在するという性格を持っているのではないか。技術は「道具」であることを破り出る性格を本来持っているのではないだろうか。それゆえ基本的に、技術を道具として捉えることを、「技術の道具的理解」そのものの不十分さを思うべきではないだろうか。ベーコン自身はこのような疑念を表立って論じてはいないが、彼がソロモンの家のミュートスで理想として描いた科学技術の体制は、あるいは現在においても実現されていないかもしれぬほどの、技術コントロールの準備と仕組みをそなえたものだと言える。ソロモンの家はまさにコントロールしようとしている。したがってたとえ表立って論じられてはいなくとも、ベーコンのテキストには「技術の道具的理解」の不十分さを指し示すものが確かに存するのである。

[4-11] 「技術の道具的理解」は先に指摘したように現在でも一般的であるが、この理解の背後には、技術および技術がもたらしうるものを、そしてそれらの変化を、測定し判定する尺度が暗黙のうちに想定されていると思われる。容易に見て取りうることであろうが、その尺度として想定されているのは、主体(Subjekt)である。全き意味で自己存在(Selbstsein)でありうる存在者たる人間、人間のそういう規定によって成立する主体像が、根本のところに想定されている。人間だけが全き意味で自己存在であることができ、それゆえに人間は、世界内に生じるあらゆることに関して、決定的な主体(基体)であることができるのであり、尺度なのである。この尺度によって、あるいは人間的主体のパースペクティヴの内で、測定あれ判定されるものであるはずの技術は、しかしながら、その測定と判定から逃れ去ることができる。それによってひいては、この尺度そのものを無効にしてしまうことができる。つまり技術は人間が主体たることを危うくしうるのである。

[4-12] ベーコンは「不正な」という言葉を使っていたが、この「不正さ」とは、根本のところでは、人間的主体とそのパースペクティヴを不安定にし、危うくするということを意味する。まさにそのように考えられる状況が、現代においては実際に存在する。人間そのものが技術によって左右され、技術が人間の死命を制すると感じ取られている。「ハイテク不安」とでも名づけられようか。それゆえに技術は、非人間的あるいは反人間的なものとされたり、場合によっては魔物化(Daemonisierung)されたりするのである。それゆえに同時に、先に述べたような技術コントロールが盛んに論議されるのである。

[4-13] 以上のように考えてよいとすれば、技術を道具的に捉えることは考え直されねばならない。そうした上で、「技術の本来の空虚さ」のありかが捜されねばならない。ただし、技術の道具的理解を考え直さねばならぬからといって、そこからただちに、技術は全くもって「物」として捉えられるべきである、と考えてよいのではない。言い換えると、技術は人間的主体のパースペクティヴの外に存するのであり、それゆえに「空虚」なのであると考えてよいのではない。まして、その空虚が人間的主体とそのパースペクティヴに無効を宣告するのだと考えるのは適当ではない。というのも、そのように考えていては、いまだ技術の道具的理解から十分に脱しているとは言えず、本当に考え直すことになっていないからである。そして結局は、技術の「魔物化」とそれほど変わらぬことになってしまうからである。それならば、いったいどう考えるべきであるのか。ベーコンの手掛かりを見出すことができると思われる。ここでもう一度、ベーコンにおける技術の意味を、彼の基本的主張を思い起こさねばならない。

[4-14] ベーコンにおける技術(科学技術)は、同時に、世界における人間の真のあり方を、真の態度を表現するものであった。人間はただ経験的能力のみによってアリのように世界に存在していてはならず、ただ知性的能力のみによってクモのように世界に存在していてもならない。人間は両能力を緊密に結合することによって、あたかもミツバチのように世界に存在せねばならないのであり、ミツバチのような態度を世界においてとらねばならない。ベーコンにおける技術は、人間のこのような態度ないしあり方をこのような自己存在を、表現し現実化するものだったのである。したがってベーコンにおいても次のように言うことができる。すなわち、まず、道具的なものと捉えていては、技術を汲み尽くすことはそもそもできないと。そしてさらに、もし彼の言葉通り技術に「本来の空虚さ」が存するのなら、それは実は人間の内に存するとしなければならないと。「本来の空虚さ」は、ベーコンが「革新」として主張した、世界における人間のあり方ないし態度の内に、存するのである。

[4-15] このことは、人間的主体の自己存在とは別のものがこれを砕くということではないから、必ずしもこの自己存在に無効が宣告されるということを意味しない。むしろそれは、この自己が絶対的なものではないということだと、この尺度が絶対的なものではないということだと考えられねばならない。人間的主体そのものを相対的なものとして、その内に空虚を含むものとして、考えねばならないのである。まずは、技術をaussermenschlich ないし nichtmenschlich なものとして捉えることの不十分さが気づかれねばならない。言わば、人間そのものが技術なのである。そして、その人間そのものの内に本来的な空虚があると気づかれねばならない。一個人によるものから法や市民たちによるものまで、いかなるコントロールをもってしても技術が抑制されないのは、コントロールを欲する側である人間的主体そのものの内に「空虚さ」があり、それが「本来の」ものだからなのである。「本来の空虚さによって虚偽であることが証明される」のは、実は人間なのである。誤解を恐れずに端的に言うと、人間的主体自身が「虚偽」でありうる、あるいは人間的主体自身が「虚偽」を含む、のである。

[4-16] 「本来の」ものであるがゆえに、この空虚さはいかにしても何によっても埋めることはできない。この空虚さを克服するなどということは、そもそもできない。ベーコンが人間の知識と力に対し「絶大な」信頼を持っていたというのは誤りであるし、人間王国の拡大が技術によって「容易に」達成できると考えていたというのも誤りである。

[4-17] 人間的主体自身が虚偽を含むなどと言うと、現代技術の脅威にも鑑みて、あまりに悲観的ないし絶望的なことを筆者が述べているように思われるかもしれない。しかしこれは言わば当然のことではないだろうか。これは、人間的主体には制限が帰せられるということを言っているのである。同じく、技術には制限が帰せられるということを言っているのである。そして、技術と人間とを別物と捉えることは不適切であるがゆえに、この制限を解消するとか克服するとかということを簡単に言うことはできないのである。解消や克服と言われるものがもしかりに成就されるとしたら、それは人間が人間並みを超えるということになりはしないか。超えていって到達するところとして、いったいいかなるものが考えられるのだろうか。

[4-18] 現代技術を前にして、近代ヨーロッパ的な技術とは異なる技術と言いうるものを、もう一つの選択肢的なものを考えようとする試みもある。たとえば、ブリコラージュ(bricolage)を手掛かりにして。たとえば、此方へ-前へ-もたらす露現(Her-vor-brigendes Entbergen)を手掛かりにして(24)。こうしたものを考えることにはそれなりの意味がある。こうしたものはかつて存在したのだろうし、現在も存在しており、これからも存在するだろう。しかしながら、同時に次のように言わねばならないのではなかろうか。ブリコラージュであれ此方へ-前へ-もたらす露現であれ、そういうものにつながりゆき、そういうものに応答している人間であれば、空虚がなくなるとはかぎらない。そこにもやはり、そこに応じた空虚が存在すると。

*ベーコンのテキスト
The Works of Francis Bacon; ed. Spedding,Ellis,Heath, 1857-1874. 新版1963 Stuttgart-Bad Cannstatt
 Novum Organum(ノヴム・オルガヌム)vol.1. p.119-365
 De Sapientia Veterum(古代人の知恵)vol.6. p.605-686
 New Atlantis(ニュー・アトランティス)vol.3. p.125-168
Neues Organon; hrsg. von W.Krohn, 1990 Hamburg.(右記全集のテキストとドイツ語訳の対照版)
The New Organon; ed. by F.H.Anderson, Macmillan/Library of Liberal Arts.(英語訳)
Weisheit der Alten; hrsg. von Phil.Rippel, 1990 Frankfurt a.M.(ドイツ語訳)
New-Atlantis; hrsg. von J.Klein, 1982 Stuttgart(ドイツ語訳)
日本語訳には、桂寿一訳『ノヴム・オルガヌム』(岩波文庫)、福原麟太郎編『ベーコン』(中央公論社)、阪本賢三『ベーコン』(講談社)に所収のものを、参照あるいは使用した。

(1)ミノスはダイダロスが滞在したクレタの王。ダイダロスはその優れた技術をもってミノスの妻であるパシパエが牡牛と交わるのに手を貸し、結果、少年少女を食らう怪物ミノタウロスが生まれた。しかしダイダロスはラビュリントスを建造してそれを隠した。
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(2)De Sapientia Veterum. The Works. vol.6. p.660
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(3)Novum Organum. Francisci de Verulamio Instauratio Magna, Preafacio. The Works, vol.1. p.125f, Anderson p.7f.
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(4)Novum Organum. ibid. The Works, vol.1. p.126, Anderson p.8
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(5) ibid.
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(6) ibid.
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(7)パオロ・ロッシ(伊藤和行訳)『哲学者と機械 近代初期における科学・技術・哲学』(1989、学術書房)を、特にその第一章を参照されたい。さらに、P.M.シュル(粟田賢三訳)『機械と哲学』(1972、岩波書店)も参照されたい。
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(8)Lynn White Jr.: Medieval Technology and Social Change. 1962 Oxford U.P. 内田星美訳『中世の技術と社会変動』(1985、思索社)を参照されたい。
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(9)Novum Organum. Aphorismi de interpretatione naturae et regno hominis-95=(Aphorisms I-95). The Works, vol.1 p.201, Anderson p.93 を見よ。
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(10)Novum Organum. Francisci de Verulamio Instauratio Magna, Preafacio. The Works, vol.1. p.131, Anderson p.14
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(11)Novum Organum. ibid. The Works, vol.1 p.132f. Anderson p.16
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(12)Novum Organum. Aphorisms I-73. The Works vol.1. p.182f. Anderson p.71
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(13)Novum Organum. Aphorisms I-124. The Works vol.1. p.218. Anderson p.114
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(14)Novum Organum. Aphorisms II-4. The Works vol.1 p.230. Anderson p.124
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(15)Novum Organum. Distributio operis (The Plan of the Great Instauration), The Works vol.1 p.141. Anderson p.25
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(16)Novum Organum. Aphorisms I-98. The Works vol.1. p.203. Anderson p.95
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(17)本節の内容についての付記。ベーコンの考えた科学技術については、主にガリレオやデカルトと比較することによって、低い評価の下されることが多い。それは特に、数学と演繹的方法との位置づけについて、ベーコンの考えのいたらなさを指摘することによる。しかしながら、ベーコンが数学を軽視したとするのも、演繹的方法を知らなかったとするのも、必ずしも正しくない。「自然研究は、それが自然学とともにはじまり数学において終わるとき、最良の結果を得る」(Novum Organum. Aphorisms II-8. The Works vol.1. p.235 Anderson p.129)と述べられているし、「ソロモンの家」には数学研究所がある。また、「自然の解釈のための私の指標は二つの部門を包括する。一つはいかにして実験から一般的命題を引き出し形成するかにかかわり、もう一つはいかにして一般的命題から新たな実験を導出し誘導するかにかかわる」(Novum Organum. Aphorisms II-8. The Works vol.1. p.235 Anderson p.130)とも述べられている。ただしベーコンは「自然は数学の言葉で書かれている」とは考えないし、「自然の数学化」を行いもしない。仮説からの演繹的結論の決定的性格を信じもしない。彼にとって自然は複雑豊饒であり、場合によっては攪乱的であって、単純斉一ではない。彼はこれをそのままに認める。こうした彼の態度が低く評価されるとすれば、その評価の根底にある尺度はいったいいかなるものであろうか。詳細かつ広範な研究が必要な問題であるので、他日を期したい。
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(18)New Atlantis. The Works vol.3. p.165.
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(19)New Atlantis. The Works vol.3. p.156.
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(20)以上の一〜三での筆者のベーコン解釈に意外の感を抱かれたり、ベーコンに好意的すぎる強引な解釈ではないかと思われる方もあるかもしれない。筆者に多くのことを教えたベーコン研究所、パオロ・ロッシ(前田達郎訳)『魔術から科学へ』(1970、サイマル出版会)、坂本賢三『ベーコン』(1981、講談社)を紹介しておく。
 なお、この一〜三の内容は、近畿大学教養部における1991年度の講義でベーコンについて話したことをもとにしている。
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(21) Hans Lenk, Guenter Ropohl(Hrsg.); Technik und Ethik. 1987 Stuttgart., Walter Bungart, Hans Lenk(Hrsg.); Technikbewertung -philosophische und psychologische Perspektiven. 1988 Frankfurt a.M., Hans Lenk, Matthias Maring(Hrsg.); Technikverantwortung - Gueterabwaegung-Risikobewertung-Verhaltenskodizes. 1991 Frankfurt a.M./New York, を参照されたい。なお、拙論「技術者の責任」(『ライフサイエンス』第19巻第6号、1992)において、筆者はこの問題について若干論じた。
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(22)Guenter Ropohl; Technologische Aufklaerung -Beitraege zur Technikphilosophie. 1991 Frankfurt a.M. S.18.(ただし番号は筆者による)
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(23)Martin Heidegger; Die Frage nach der Technik. in Die Technik und die Kehre. 1962 Pfullingen S.7.
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(24)レヴィ・ストロースやハイデガー本人がもう一つの選択肢としてこういうものを提出しているという意味ではない。レヴィ・ストロースについて筆者は確言できないが、少なくともハイデガーは、もっと慎重な人だと思われる。
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