ケアの心

1-1.心オブセッション

  最初に、最近実際にあった出来事を紹介します。ある医科大学が行った入学試験の小論文試験で、医師という職業について、それがプロフェッショナルとしてあるために必要な条件はどのようなものであるかを受験生に問う問題が出されました。

  この小論文試験に関係した教員から話を聞く機会があったのですが、その教員によると、受験生の答案に一つの傾向が顕著に見られたそうです。ほとんど定型パターンだといってもよいほど、同じようなことを書いた答案が多数あったそうです。それは、「知識や技術や経験をそなえているだけではなくて、心ある医師たることが条件である」とまとめうるもので、「心ある」のほかに、受験生がよく用いていた表現としては、「患者に優しい」「患者の心を理解する」「医は仁術」「豊かな人間性」などがあったとのことです。これらの表現が指し示すような性格もしくは特性が、医師がプロとして成立するための条件だというわけです。私にこの話をしてくれた人はちょっと口の悪い人なので、「まるで心オブセッションだよ。ああいやだいやだ」という感想をもらしていました。

  この出来事はどういうことを意味するのでしょうか。この学校を受験する者の多くが、「心ある」という表現で指し示しうること、いわば心イズムが、医師たることの成立条件だと考えているのでしょう。少なくとも、自分たちがそうなるはずのこれからの医師には、心イズムが必要だと考えているのでしょう。もちろん、少々うがった見方をすれば、受験産業界で、医学部の小論文試験ではこのようなことを書け、と指導しているのかもしれません。しかしそうだとすれば、心イズムを医師の条件として述べれば承認・賞賛される可能性が高いという判断が、受験産業界にあるわけです。この判断をさらにこう読み替えてもよいでしょう。すなわち、医者である人間たちは心イズムを承認・賞賛する、大学の世界に暮らしている人間はそれを承認・賞賛する、そして、現在の日本社会はそれを承認・賞賛する。

  大学教員というのは受験産業界の判断を軽んじがちですが、大学教員集団よりも受験産業界のほうが高い情報収集能力をもっていますし、収集した情報に基づいて下される判断を甘く見てはいけません。実際、この小論文試験の採点には医者であるところの教員たちも加わっていましたが、それら医者であるところの採点者たちは、「心ある」というような表現にどうも弱いらしく、心イズムの答案には比較的高い点数を与えていました。これに似た事例はほかにもあって、いわゆる「赤ひげ」的なことに弱い医者がいます。あるいは、学問的には問題の多い、つまりたとえば統計学的にはいいかげんな、キュ−ブラ−・ロスの著作が大好きで、「看取り」などの言葉にまいってしまう医者や、看護スタッフや、医学生もいます。

  以上のように考えると、先ほどの「まるで心オブセッションだ。ああいやだいやだ」という台詞も、たんに口が悪いといってすませるわけにいかないと思われます。考えてみる必要があるでしょう。

1-2.「いや、先生、それはいいんです」

  私は、こういう心イズムを目撃して、あるテキストを思い出しました。それは東京都立駒込病院のエイズ専門外来で働いている医者、根岸冒功の発言です。

「変な話ですが、患者さんの新しい流れといったものを、感じます。例えば、ふつう患者さんには、最初にあなたは陽性だよ、ということをお話して、二番目にはこちらが提供できるものを具体的に話して、三番目にはこの病気と闘っていくにはどうしたらいいか、ということをお話するわけです。その中の三番目のポイントとしてお話しているのはこの病気と闘うための気力を保つにはどうしたらいいだろうかということなのですが、その話になったときに「いや、先生、それはいいんです。私がここに来たのは正確に診断してほしいからなのです。どういう状況にあるか、ということを判断して、その状況に応じて薬が欲しいのです。それ以外のこと、つまり気力のこと、あるいは回りの状況の問題、それは私がやりますから必要ありません。私がここに来たのは物理的なものが欲しいからです」と言う患者がいるのです。ものというのは薬だけではなくて、診断という抽象的なアプローチももちろんものなのです。そういうものが欲しいから来たのであって、それ以外のことは拒否する、という人が時々あるのです。これはおそらく一番優秀な日本人なのだろうなと思います。今までの流れとは違ったものが見えるような気がするのです。するとそっちの方に日本が進んでいくとしたならば、これはめでたく解決するでしょう」
現代思想1992年6月号、p.123、「エイズを生きる  臨床現場からの報告」(文字遣いを若干改変。改行は再現していない)

  実は、根岸はこの発言より少し前に、こうも発言しています。

「西洋文化では、病気の人と接する中から、看護という問題が出てきました。看護の流れがずっとあって、その上にいくつかの技術的問題が現われるわけです。患者さんがより快適に暮らせるようにという形での看護の思想が、技術的な操作、例えばその人の心理的な悩みに対してのアプローチ、あるいはその原因、結果を導入して、分析し、正確に診断して役立つ治療をして、という医師としての技術的な問題につながっていくわけです。ですから、医師がもっている能力というのは看護学の中に基礎があって、そこに専門技術者としての医師というのがあるわけです。私たちはそこを教わらなければなりません」
同上、p.122(改行は再現していない)

  この二つの発言の内容は必ずしも直接につながりませんが、以下のように連関させうるでしょう。すなわち、根岸は、医者の仕事ないし医学は二番目のテキストで看護学という言葉が指示しているものを土台とする、と考えている。根岸は歴史的観点をもちだしてこう述べるわけですが、たしかに、西洋のiatrikeあるいはmedicorの営みの歴史を振り返れば、そのように言えます。名著『近代医学の史的基盤』を書いた川喜多愛郎も、同様のことを考えています。つまり、ケアがキュアの根源である、あるいは、ケアがキュアを包みこむのであると考えています。

「<川喜多>今ではキュアの技術が近代的に専門化しましたし、極度に専門化しすぎているほどですから、一人でキュアとケアを兼ねること、平たく言えば、つきっきりで医者が患者さんの世話をするわけにはいかないので、分業的に医者はキュアを主にし、看護婦さんはケアをおもな任務とするということはある意味で認めざるをえません。また、それしか方法はないと思いますが、本来それらは一つでなければならない。キュアに無知のケアは不備だし、ケアを包みこまないキュアは本当の意味で「癒す」ことができません。たまたま制度上、今では分業の形になっているけれども、本質的には一つのものをやや違った角度から見たことなのです。でなければ患者は引き裂かれる。今度病院に入って、身にしみてそのへんの消息が分かったような気がします。<佐々木>なるほど。そうしますと、癒しの術のことを私たちは普通「医学」と一言で捉えていますが、それはキュアとケアが一体の術で、さらに言えば、ケアの方が根源的であるような術であると、このように先生はお考えになっておられるわけですね。<川喜多>おっしゃるとおりです」
川喜多愛郎・佐々木力『医学史と数学史の対話』1992、中公新書1102(改行は再現していない)

  すると、「心ある」という言葉や「ケア」という言葉が指し示すであろうものが、医学医療のそもそもの土台ないし根源であると、歴史的根拠をもともないつつ言うことができる。けれども、他方で、事実として、患者と呼ばれる人間たちの側にそういうものを拒絶する流れがある。言わば、「心」なんて私には結構です、「ケア」なんて私には結構です、と拒絶する人たちがいる。そしてそういう人たちを、根岸は、「おそらく一番優秀な日本人なのだろうな」という言葉でとらえており、「めでたく解決するでしょう」という言葉も用いて評価しているわけです。

  以上紹介したことをきっかけに、いろいろと考えることができるでしょう。「議論がしやすいように、なるべくはっきりとしたテーゼを出してくれ」という注文もありましたので、今日は、蛮勇をふるって、根岸が「一番優秀な日本人」と言っていた患者の側に、「心オブセッションだ、ああいやだいやだ」という台詞の側に、肩入れして考えてみたいと思います。つまり、「ケア」や「心ある」にたいして批判的になり、二つのことを考えてみたいと思います。

2.優秀な日本人

2-1.病院に行こう

  今現在の日本において、医学医療とかかわりをもたずに生きていくことはほとんどできません。母子健康手帳という冊子、健康診断という強制的行事、死亡診断書という文書など、医学医療は私たちの人生にひっきりなしに入り込んできます。私たちの方もそれをたいてい受け入れています。これは、いわゆるバイオ・ポリティクスのあらわれです。そして医療者はバイオ・ポリティクスの先兵です。現在の日本人がふと振り向くと、そこにはいつも医療者がいます。もしソクラテスが生きていたら、こういう事態を問い糺して言うかもしれません。

「一般の名もない人たちや手職人ばかりか、自由教育を身につけたと称する人たちまでもが、最高の腕を持つ医者や裁判官を必要としているということ、いったい、一国における教育が悪しき恥ずべき状態にあることを告げる証拠として、これよりももっと大きなものを君は何か見いだすことができるかね」
『国家』405A-B

  これは『国家』にあるテキストですから、主として「教育」に関する発言です。今日の話も、こういうポリティカルな次元と連関するでしょうが、話をあまり広げるのは得策ではありません。そこで、「病院」という場所に話を限定します。「病院」とは、そこに行けば医療者集団と確実に出会う場所、医療者集団の住処です。

  病院という場所での医学医療は、医療者ではない人間がそこに存在しなければ、基本的に成立しません。つまり、患者と呼ばれることになる人間がそこにやってこなければなりません。

  たとえば私は、いったいどういう時に病院に行くのでしょうか。病院の医療者たちから招待を受けて病院に行くことはまずありません。多くの場合、私は、病院に行こうと私自身が判断したときに、私の方から、招待もなく、病院に行きます。これを以下では「普通の場合」と言うことにします。

  「普通の場合」でない場合は、いくつか考えられるでしょう。健康診断という行事もその一例です。そうした場合の中で一つ重要と見なしうるのは、病院に行こうと私自身が判断できなくなっているときに、私以外の人間が、病院に行こうと判断し、私以外の人間の手によって、たとえば運び込まれる場合でしょう。ただしこれは、それほど頻繁に起きないと見なすことができます。これが一度起きて、そのあと短期間のうちに私の死亡診断書が書かれるということさえ考えられますから、以下ではこれを「稀な場合」と言うことにします。

  エンゲルハートが『バイオエシックスの基礎づけ』で用いた術語で言えば、「普通の場合」には、私は、「厳密な意味での人格」として、病院に行くことを選択し実行するわけです。さらに、多くの場合、つまり「普通中の普通の場合」、私は、厳密な意味での人格として、病院に立ち寄るのであり、用がすめば帰ってきます。

  もちろん、このような病院への立ち寄りを繰り返すうちに、用がすんだからといって帰してもらえなくなり、「入院」という被拘束的な事態に陥ることもあります。けれども、このことは必ずしも、私が厳密な意味での人格であることを否定しません。実際、入院中の人たちの大半は、厳密な意味での人格です。いわゆる末期的状況にある人でも、多くは、厳密な意味での人格です。

  次に、「稀な場合」ですが、この場合おそらく、私は、厳密な意味での人格ではありません。私は、エンゲルハートの別の術語を用いるなら、「社会的な意味での人格」であるかもしれません。あるいは、「対応能力のない」人間であるかもしれません。けれども、病院に行こうという判断を下す人(たち)が必ずそこにいます。私が病院に行くことを選択し実行する人(たち)が存在します。そしてその人(たち)は、厳密な意味での人格です。

  したがって、「普通の場合」でも「稀な場合」でも、私に関して、厳密な意味での人格(たち)が下す、「病院に行こう」という判断が成立しています。それでは、どうしてそのような判断が下されるのでしょうか。

  それは次の事情によります。すなわち、医学医療上の知識や方策(以下では短く「医の専門知」と言うことにします)が欠落しており、それが補完されねばならないからです。つまり、自分(たち)の手もとには医の専門知が欠落しており、それが補完されねばならないとする認識を、厳密な意味での人格(たち)が抱いているのです。厳密な意味での人格(たち)が抱くこの認識が、病院に行くことの前提になります。この認識の存在は、「稀な場合」でも「普通の場合」でも確認できるでしょう。

2-2.医の専門知

  誤解のないように早めに言っておきますが、私は「みなさん専門知を獲得しましょう」と言いたいのではありません。それぞれの人にはそれぞれの生業があります。医の専門知の取得に時間と労力を費やせるほど余裕のある人はあまりいないでしょう。

  ただし、念のために言っておくべきことはあります。医の専門知はかなり囲い込まれていますし、医療者集団はそれを囲い込んでもきました。いわゆる『ヒポクラテスの誓い』にも、この囲い込みの意識が認められます。けれども、文献学上「真正のコス派(ヒポクラテス派)の作品」とされている『神聖な病について』や『流行病1』『流行病3』では、医の専門知は神的もしくは神秘的なものではないとされています。つまりそれは、何かイニシエ−ションが必要だとか、師匠と弟子とのあいだに飛び散る火花を通じてさずかるとかいうような、不可思議なものではありません。医の専門知はたんなる知識集合体です。医療者になる人間が取得できるのと同様に、医療者にならない人間もそれを取得できます。少なくとも、必要なものを獲得するくらいのことは難しくありません。医学医療関係にかぎらず、「高度な専門的知識」という言い方がしばしばなされますが、本当に「高度」なのであれば、その分野の専門家の中にもそれを理解できない人はかなりいるのです。それが理解できないことを専門家でない人間が気に病む必要はありません。

  話を戻します。私たちは医の専門知とどのような関係を結べばよいのでしょうか。ヘルガ・クーゼが、最近出した本の中でこんなことを言っています。「エキスパートの知識は道具的知識である」(Helga Kuhse, Caring:Nurses, Women and Ethics. 1997 Blackwell, p.57)。クーゼに言われるまでもなく、一般に専門的知識とはそういうものでしょう。たとえば、環境倫理学の問題系において、生態学者および生態学的知識は大きな役割を果たしますし、果たすべきでもありますが、それでもそれはやはり道具的なものです。決定のための道具です。生態学者が決定に参与してかまいませんし、参与してもらうのが望ましいのですが、生態学者「が」決定を下すのではありません。これと同じように、医の専門知も道具的知識です。そして、プラトンによれば、道具に関して最もよく知っている人間とは、その道具を使用する人間です(以下の引用文を参照)。あるいは、カントの命法の区分で言えば、医療者が医療者として私たちにたいして発言できるのは、助言する仮言命法までなのです(以下の引用文を参照)。私たちはこのことを忘れてはなりません。少なくともこのことを簡単にゆずってはいけません。

「ところで、道具にせよ、動物にせよ、行為にせよ、それぞれのものの善さや美しさや正しさは、それぞれがそのために作られたり生じたりしているところの、ほかならぬ使用ということにかかわるのではないかね?/そのとおりです。/そうすると、まったく必然的に、それぞれのものを使う人こそが、最もよくそのものに通じている人であり、そして、自分の使うものが実際の使用にあたって、どのような善いところあるいは悪いところを示すかを、製作者に告げる人となるのだ、ということになる」
『国家』(601d-e)

「仮言命法において、理性が人間的意志に対して立てる真正の要求が取り扱われているのだろうか。カント自身は、仮言命法はたんに助言的な意義をもつだけだと説明する。しかし実のところ、任意の目的を達成するための正しい手段を見つけ、それを行為の際にうまく用いることが肝心な場合、仮言命法を担当するのは実用的悟性のみであって、理性ではない。しかも、命令するのは悟性に似つかわしくない。悟性はせいぜい推奨し、上首尾の行為のために助言を与えうるだけである。たとえば、医者は患者に喫煙を禁じるのではなくて、「もしあなたが健康になりたいのならば、煙草をやめねばなりません」などと言って、患者に助言するのである。ここでの「ねばならない」は自然法則的な必然性であり、「汝なすべし」に固有な、自由の必然性とは区別されねばならない。ここで決定的役割をしている目的は健康であるが、これに関する決定を、医者は患者自身にゆだねなければならない。患者は場合によっては、煙草の楽しみ抜きのより長い人生よりも、煙草とともに生きるもっと短い人生の方を選ぶこともあるだろう」
Friedrich Kaulbach, Immanuel Kants >Grundlegung zur Metaphysik der Sitten<, 1988 Darmstadt. S.57

  テーゼの形にしてはっきりさせましょう。「医者は患者をモノ扱いする」としばしば言われますが、この言い方を改変して、こう命題化しましょう。「患者は医者をつねに同時に道具扱いしよう。それが事柄の本性に則した態度であり、優秀な日本人の態度である」。

  そんな無茶言うな、という声が今にも聞こえてきそうですが、どうして無茶なのでしょうか。

  患者と呼ばれる人間には医の専門知が欠落しているからというのでは、無茶だという理由にはなりません。

  「患者は精神的に弱くなっている」からでしょうか。しかし患者と呼ばれる人間は、先に述べた「普通の場合」には、「厳密な意味での人格」です。精神的に弱くなったりなどしていません。先に述べた「稀な場合」なら、そこでの患者に「精神的に弱くなっている」という表現を用いるのは不適当です。

  そもそも、「精神的に弱くなっている」という言葉はどういう意味なのでしょうか。涙もろくなっていたり、積極的でなくなっていたり、傷つきやすくなっていたりすることなのでしょうか。もしそうならば、それは、病院に行こうが行くまいが、厳密な意味での人格がそのほかの場合にもしばしば陥る状態です。快活で積極的でなかなかめげないようなあり方が人間のノーマルな状態だというのは、疑わしい考え方です。

  あるいは、「患者は弱い立場にある」からでしょうか。たとえばエンゲルハートは、『バイオエシックスの基礎づけ』で「未知の領域でのよそ者としての患者」という節を設け、次のように述べています。

「医療専門家を訪れた患者たちは、不慣れな領域に入ることになる。患者たちが入るのは、医療専門職の長い歴史を経て注意深く定められてきたさまざまな事柄からなる領域である。……中略……患者はこうした事柄の文脈の中ではよそ者である。……中略……よそ者は、「彼が加わろうとしている社会的集団の一員としてのいかなる地位ももっておらず、従って、彼は自分の態度を取るための起点をもつことができないという事実に直面しなければならない」。保健・医療に焦点を絞るためにアルフレッド・シュッツの要点を言い換えると、よそ者としての患者は、高度医療技術という環境の中で自分を適応させることさえ苦労するのであるから、まして何らかの権限を行使することなどさらに困難であろう」
(H.T.エンゲルハート『バイオエシックスの基礎づけ』(1989、朝日出版社)p.314

  なるほど、不慣れな領域に足を踏み入れた人間は、その領域ではよそ者であり、したがって弱い立場にあると言えるのかもしれません。私たちは病院という場所ではよそ者であり、弱い立場にあるのかもしれません。しかし、まず言わねばならないことが一つあります。「患者は弱い立場にある」というようなことを、医療専門家たちから言われる筋合いはありません。「弱き者、なんじの名は女」という台詞を男が口にするのと似たようなもので、こういう言説には用心しなければなりません。すでに多くの女性たちがこういう言説に用心深くなっています。私たちもそれを見習いましょう。

  なるほど、「高度医療技術という環境」であるところの病院の中に私たちは入ります。そこは不慣れな領域でしょう。しかし、私たちは医学生でも看護学生でもありません。つまり、私たちはそこに住みつこうと思って病院に入るのではありませんし、病院を住処とする医療専門家集団に加わろうと思っているのでもありません。したがって、病院の中では、私たちはいつまでたってもよそ者であり、よそ者でありつづけて当然なのです。いやむしろ、私たちは「住みつこう」とも「加わろう」とも思っていないのですから、シュッツが言うような意味での「よそ者」でさえないのです。したがって、「自分の態度を取るための起点をもつことができない」とはかぎりません。

  おそらくは、「患者」と呼ばれることに注意深くなる必要があるのです。この命名は、なるほど私たちから起点を奪うように思われます。堤義明という電鉄会社を経営する実業家がいますが、彼についてこういう話を聞いたことがあります。ある人が自分の住んでいるところがどこかを堤に話したとき、彼は「ああそうですか、それではうちのお客様ですね」と返答したそうです。これは実業家としてまことに見事で巧妙な発言です。けれども、この「うちのお客様」という言葉は、同時に、不愉快で失礼な言葉でもあるのです。「患者」という言葉もこういう言葉であると考えられます。

  それでもなお、病院の中で途方に暮れてしまうことはあるでしょう。そのときには、もとのテキストの文脈を捨象することになりますが、いわば私たちにとってのダイモーンの声として、ソクラテスのあの呼びかけを思い出しましょう。「それで恥ずかしくないのか、アテナイ人諸君」(『弁明』29d-e)。

3.ケアする身体

3-1.ケアや看護の布置

  医の専門知とどうかかわるかという話から、医の専門知そのものについての話に移ります。先に紹介した根岸や川喜多は、医の専門知の土台はケアもしくは看護だと言っていました。

  医学史を振り返ると、西洋の医学医療は19世紀に大きな変換を遂げた、と確実に言うことができます。この頃に、自分たちの携わっている営みは自然科学の一分野であり、病気のプロセスは解剖学や生理学の言葉や概念によって説明されなければならないという考えが、医療者たちのあいだで規範的なものになりました。医学医療は人体生物学に基づいた生物学的医学になったのです。ただし、医学医療がたとえば物理学よりもはっきりともっている特徴があります。それは、医学医療には生物学的医学の思考枠組とは異なる思考枠組が内包されているということです。

  いわゆるパラダイム論においては、多くの実例が物理学や天文学の歴史から取り上げられます。そのせいで、科学の一つの分野には一つのパラダイムが対応し、その一つのパラダイムが変換していくというイメージをその分野の歴史について結ばせがちです。けれども、科学の分野を個々に見てみると、このイメージはそれほどうまくあてはまりません。とりわけ医学医療の場合、複数のパラダイムを内包する複合的な構造がよく見て取れます。その複合構造が上位の支配的パラダイムと下位の諸パラダイムという仕組みになっているのか、それとも、上位下位ということの言いにくい仕組みになっているのかについては、議論があります(以下の文献を参照)。しかしここでその議論に立ち入るわけにはいきませんし、その必要もありません。

  パラダイムおよびその複合構造という論点については、トーマス・クーンの諸著作のほかに以下を参照。ウルフほか『人間と医学』(1996、博品社)、都城秋穂『科学革命とは何か』(1998、岩波書店)、浅田ほか『科学的方法とは何か』(1986、中公新書814)、Thomas Fuchs, Die Mechanisierung des Herzens. 1992 Frankfurt a.M. (Suhrkamp)

  なぜなら、確認しておきたいのは以下のことだからです。すなわち、今現在の医学医療は主として生物学的医学ですから、その点をとらえれば、「ケア」や「看護」の影は薄いということができるでしょう。過去の医学医療に関する歴史的言明として、あるいは、「そうあるべし」という規範的言明として、「ケアや看護が医学医療の土台である」と述べることは、それ自体としては有意味ですが、「今現在の医学医療の土台がケアや看護であるかどうか」という問いを立てるとするなら、「土台ではない」と答えるほうがより実情に則しています。しかし、このことは、「ケア」や「看護」と呼ばれうるものが今現在の医学医療の内部に存在しないことを意味するのではありません。また、それが今現在の医学医療とは別物であることを意味するのでもありません。百歩ゆずって、生物学的医学の思考枠組には「ケア」や「看護」の落ち着き場所はないと認めるとしても、生物学的医学とは異なる思考枠組が今現在の医学医療の内部に存在します。おそらく、現時点では、それら異なる思考枠組のほうに「ケア」や「看護」の居場所が求められているのでしょう。そのような求められ方そのものをどう評価するかは一つの問題ですが、それよりもここで確認しておきたいのは、「ケア」や「看護」もあくまで医の専門知であることです。先に紹介した受験生の定型パターン、「知識や技術や経験をそなえているだけではなくて、心ある医師たることが条件である」をもじって言えば、「ケアや看護は知識や技術や経験である」のです。

  それでは、「ケア」や「看護」はどのような医の専門知なのでしょうか。

3-2.ケアの姿

  メイヤロフやギリガン、そしてノディングズの議論に見られるように、「ケア」は広い範囲をおおう概念です(以下の文献を参照)。しかし、ここでは引き続き、「病院」に場所を限定します。病院における「ケア」ないし「看護」の姿を見てみましょう。

Milton Mayeroff, On Caring. 1990(1971) HarperPerennial., Carol Gilligan, In a different voice - Psychological theory and women's development. 1982 Harvard UP., Nel Noddings, Caring - a feminine approach to ethics and moral education. 1984 University of California Press.

「あるとき、老いさらばえ、やせほそった80歳くらいの老人が搬送されてきた。呼吸は浅くて荒く、四肢にはチアノーゼがみられ、だれの目にもこの老人の生命は限界に近いほど消耗していることは明らかであった。医師によって酸素吸入や血管確保の指示は出されていたが、医学的限界を超えた患者であるのですべてのケアは看護婦に任されるということであった。後で聞いた婦長の言葉によると、自分たちの前にそれこそ投げ出された生命は、最初はもう数時間か数日の猶予しかないと思われたそうである。/そのいくばくも無いように見受けられた老人を囲んだ看護チームは、婦長の指示に従ってテキパキと緊張をただよわせて行動していた。そのとき、搬送されてきたストレッチャーから老人をベッドに移すために老人がくるまれていた毛布を取った瞬間に、婦長の口から「アッ」という声がもれた。驚いて私がそちらに目をやると、粉のように乾いた垢とほこりがあたり一面フワッとまい上がった。それと同時に悪臭が病室いっぱいに広がっていった。/そのとき婦長は、「このままではだめだから、ストレッチャーのままシャワー室にはこびましょう」と言って、医師には詰所で待機してもらうように頼んでいた。その後に起こった出来事は残念ながら、私も学生たちも後から婦長から聞かされた事実によるものであることを断っておきたい。/われわれが婦長を通して学んだことは、およそ次のようなことであった。まず、なぜ婦長がまさに死にかけている老人をただちにベッドに移さず、ストレッチャーのままシャワー室に運んだかということから始めたいと思う。そのとき婦長は、老人の悪臭もさることながら、何年も入浴した形跡も、からだをふいてもらった経験もないであろうこの老人の垢に思いが至ったそうである。この垢がこの老人の生命を消耗しつくしているにちがいないという直観である。/この熟練した婦長の直観的行為は、見事に的中したのである。シャワーをかけ、垢が取り去られるにつれて、まず老人の呼吸が静かに楽そうになってきたそうである。シャワー室の蒸気による湿った空気も功を奏してか、老人の血色もだんだん回復してきたというのである。まさしくこの老人は皮膚呼吸が垢のために全面的に不全に陥っていたのである。/老人を病室に移した後の詰所は、興奮の坩堝であった。だれしもが、ナイチンゲールの「生命力の消耗を最小限にとどめる」という言葉に話題を集中させていた。私には、婦長が老人を見ることによって瞬間的に起こした行為のなかに、人間の「行為的直観」と呼ばれるようなケアの原点を見たように思えた」
池川清子『看護  生きられる世界の実践知』167-168 (文字遣いを若干変更)

  この婦長の行動は「看護」もしくは「ケア」というものを印象深く私たちに示しています。池川自身はこれを「行為的直観」という言葉でとらえようとしているわけですが、私たちはここでまず、「心ある」といった言葉ではこの婦長の行動をとらえられないことに気づかねばなりません。

  「婦長は……中略……老人の垢に思いが至った」とテキストにありますが、婦長のこの注意力、そして瞬時の身体的および言語的応答、ケアに関する議論でしばしば用いられる言葉に言い換えればattentivenessやresponsiveness、これらは、医の専門知と無関係に成立しているのではありません。むしろこれらには医の専門知が現実化しています。この現実化においては、心などむしろ夾雑物でしょう。

  なお、この病院の医者たちはこの老人を「医学的限界を超えた患者である」と判断したようです。これはどう考えられるでしょうか。医者である彼ないし彼女らは、この婦長にくらべ、専門家としてレベルが低かったと言わざるをえません。医者たちは「キュア」を、看護スタッフは「ケア」をなどという住み分け論を持ち出しても、このケースには妥当しません。少なくともこのケースにおいて、この病院の医者たちは、医の専門知を現実化できるところまで至っていなかったのです。

  看護あるいはケアは、医の専門知の現実化です。キュアだって医の専門知の現実化です。そして、医の専門知が現実化する場所は、池川が言う「行為」、「身体の動き」です。そういう意味で、あえて言うと、「看護やケアに心はない」のです。

  今言ったことを確認するために、図像テキストを見ましょう。『おたんこナース』の一場面です(第4巻、小学館、p.154ff.)。くわしいストーリーは省略しますが、看護婦である似鳥ユキエが、お見合い相手を介抱する場面です。残念ながら場所は病院ではなくてバーですが、この点は今の文脈では問題になりません。むしろ、病院ではない場所においてさえ医の専門知が瞬時に現実化しているわけですから、かえって好都合でしょう。

  さて、音を立ててお見合い相手の青年が倒れ、額から出血します。バーのマスターはその出血を見て青くなっていますが、ユキエはそうではありません。ただちに身体が応答します(看護婦の世界には「血を見てせざるは勇なきなり」という言葉があるそうです)。椅子を降りて床に両手と片膝をついていますから、かなり大きな動作を瞬時に行っています。そして同時に青年を観察します。そのあと声をかけ、声に反応しないのを確認して、「ぎゅむう」とつねります。これは一見したところとんでもない動作です。倒れている人間を力を入れてつねるなどとは、普通に考えれば、鬼の所行です。ユキエがそうするのは、医の専門知が身についているからなのです。ユキエは、必要な確認および判断を行ったあと、「チカラありますね看護婦さん」とマスターに言われながら青年を運んでいます。これも、ユキエがことさら力持ちなのではありません。「知識と技術と経験」が可能にすることです。青年を畳の上に運んだのちも処置を行いつづけており、何度も吐かせ、トイレにも行かせます。この間、ユキエの身体は途切れることなく動き、身体的に応答し、なおかつ言語的にも応答しています。そうして青年は快復していきます。

  ユキエのこうした一連の介抱は、医の専門知の体現(embodiment)です。看護やケアは心においてあらわれてくるのではありません。看護やケアがあらわれてくる場所は、医の専門知を現実化させる動く身体なのです。

  このように考えると、先ほどの老人のケースで、婦長が最初に「アッ」と声を出したことが象徴的な意味を持つように思えます。大きく口を開き声帯を振動させて発されるこの声は、婦長の身体がそこから老人に向かって動き開いてゆき、医の専門知がそこから現実化してゆく、突破口だったのではないでしょうか。もしかすると、専門家としてレベルの低かったこの病院の医者たちは、老人を前にして鼻をつまみ口をひんまげただけだったのかもしれません。

4.「余裕がなくちゃね」

  「嫌かもしれないけど……やっぱり弱っている者にとっては天使なんだよな……」

  「フッ、しょうがない。天使と言いたいなら言わせておこうか。そのくらいの余裕がなくちゃね」

  快復して眠りに落ちていく青年とユキエとのあいだにかわされる応答です。

  看護婦にたいする「天使」という言葉、医者にたいしては「神」という言葉になるのでしょうが、こうした言葉が用いられている二人の応答を材料に、最後にとりまとめておきましょう。

  ユキエの台詞は、本当に専門家らしい台詞です。充実した仕事を通しての自足感があらわれています。

  青年はユキエにたいして「天使」という言葉を用いていますが、これはいささか失礼です。この言葉には、はじめに述べた心イズムが、方向を逆転してあらわれています。本当は、たんに「ありがとう。お世話さま」と言えばよいのです。私は、ユキエの台詞「そのくらいの余裕がなくちゃね」を青年のほうに向けたいと思います。私はすでに「患者は医者をつねに同時に道具扱いしよう」と述べました。「そのくらいの余裕がなくちゃね」ということです。


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