たとえばメンデルスゾーンとかランベルトとか、あまりに重要な人物はこのリストにはありません。(本当は書くべきなのだろうが、書きようがないと私が今のところ判断している人物は書いてません)
last updated 2001/11/09
Bahrdt Basedow Berens Bering Bergmann Bernoulli Biester Bobrik Born Breitkopf
Feder Forster父子 Franz Friedla#nder
Garve Gebauer Gentz Goldhagen Green Grunert
Hartknoch Hartung Heintz Hemsterhuis Herz Hippel Hogendorp Hufeland
Jachmann兄弟 Jacob Jenisch Joe"l
Kantの弟 Kanter Karsten Keyserling Kraus Kreuzfeldt
Mangelsdorff Meckel Meiners Metzger Motherby
Salis Schultz Schu#tz Selle(od.Sell) Spalding Spener Steinbart Steudel Stuve Sulzer
Tetens Tittel Thunmann Toussaint
Wagner Wielkes Winzenmann Wolke Wolkonski
Christian Gottlieb Arndt
クリスティアン・ゴットリープ・アルント
1743-1829
ケーニヒスベルクで学んだ(一七六〇年六月三日に学籍登録されている)あとロシアに行き、一七八〇年以来ペテルスブルクで皇帝官吏団の一員となっていた。カントの他にヒッペルやハーマンと交友があった。
カントが一七八二年に書いた「医者にたいする声明」との関係で顧慮するべき彼の書簡が残っている(アカデミー版175)。
Karl Friedrich Bahrdt
カール・フリードリッヒ・バールト
1741-1792
一七七七年にハイデスハイムに汎愛学舎を創設した。しかし一七七八年にバールトはこの学舎を去り、翌年には廃校となった。
Johann Bernhard Basedow
ヨーハン・ベルンハルト・バーゼドウ
1723-1790
教育学史上有名な教育者。ハンブルクに生まれ、ライプツィッヒで神学を学んだ。デンマークのリッター・アカデミーで教えたが、宗教教育に関して保守派と争い、アルトナのギムナジウムに転じた。コメニウスやロックの影響を受けたが、ルソーの『エミール』を読んで感激し、ルソー的な自然主義の立場に立って教育の革新を唱えた。みずからの教育思想を実践するための学校である汎愛学舎を一七七四年にデッサウに創立した。
Johann Christoph Berens
ヨーハン・クリストフ・ベーレンス
1729-1792
リーガ在住の商人。リーガ市参事会の一員。ハーマンとも交友があった。
Johann Bering
ヨーハン・ベーリンク
1748-1825
マールブルクの哲学教授。カントの追随者。一七八六年にマールブルク大学でのカント哲学の講義を禁止する勅令が出たときに、カントに報告している。
Torbern Olof Bergmann
トルベリ・オロフ・ベリマン
1735-1784
スウェーデン人の自然科学者・化学者でありウプサラ大学教授。一七六六年に出版した"Fysisk
beskrifning o#fver jordklotet"をグライフスヴァルトの教授であるLampert Hinrich
Ro#hlがドイツ語に翻訳して一七六九年に出版した"Physicalische Beschreibung
der Erdkugel"について、ツェドリッツが一七七八年八月一日づけのカントあて書簡で言及している。
Johann Jakob Bernoulli
ヨーハン・ヤーコプ・ベルヌーイ
1744-1807
ベルリンの数学者であり物理学者。"J.H.Lamberts deutscher gelehrter
Briefwechsel, 1782-1785"の編纂者。ペテルスブルクへの旅の途中一七七八年六月二九日にケーニヒスベルクに立ち寄り、カイザーリンク伯邸でカントと知り合った。
なお、彼の父親は物理学史上の名著"Hydrodynamica"(流体力学)の著者Daniel
Bernoulli(1700-1782)である。つまりヨーハン・ヤーコプは、科学史上有名なベルヌーイ家の一員である。
Johann Erich Biester
ヨーハン・エーリッヒ・ビースター
1749-1816
ゲッティンゲンで学び、一七七三年にビュッツォウの私講師になっていたが、一七七七年以降国務大臣ツェドリッツの文芸および教育関係の秘書官。一七八四年にはベルリン王立図書館の第一司書となり、学術アカデミー会員ともなった。『ベルリン月報』(Berlinische
Monatschrift, 1783年創刊。カントはこの雑誌に多数の論文を寄稿することになる)の発行者でもある。
Johann Bobrik
ヨーハン・ボブリーク
1753-1836
マリーエンブルク出身で、一七六九年にケーニヒスベルクに学籍登録されている。一七七八年以降、マリーエンブルクの歩兵連隊で従軍牧師として働いた。『純粋理性批判』のラテン語版についてカントに報告する書簡が残っている。
Friedrich Gottlieb Born
フリードリッヒ・ゴットリープ・ボルン
1743-1807
ライプツィヒの哲学教授。カントの諸著作をラテン語に翻訳して出版した。
Johann Gottlieb Immanuel Breitkopf
ヨーハン・ゴットリープ・イマヌエル・ブライトコップフ
1719-1794
ライプツィッヒの出版業者であり書店主。一七七八年にはじめてカントに手紙を書き、『さまざまな人種について』をもっとまとまった著作にしてはどうかともちかけた。
Joachim Heinrich Campe
ヨアヒム・ハインリッヒ・カンペ
1746-1818
教育者。ハレとヘルムシュタットで学び、フンボルト家の家庭教師をしていたが、汎愛学舎(Philanthoropin)に協力し、バーゼドウの引退後、一七七六年に汎愛学舎の指導者となった。
Wilhelm Crichton
ヴィルヘルム・クリヒトン
1732-1805
一七七二年以後ケーニヒスベルクのドイツ改革派教会の宮廷説教師。一七七七年からカンターの『ケーニヒスベルク学術政治新聞』(Ko#nigsberger
Gelehrte und Politische Zeitungen)の編集に携わり、みずからも学術的な記事を掲載していた。カントは汎愛学舎の雑誌の世話をクリヒトンに任せようとするいささか世知に長けた手紙を書いている。
Carl Gottlob Dengel
カール・ゴットロープ・デンゲル
?-?
ケーニヒスベルクの書店主。
Johann Peter Eberhardt
ヨーハン・ペーター・エーベルハルト
1727-1779
一七五三年からハレの哲学員外教授。一七五六年から医学部の正教授。彼の著書"Erst
Gru#nde der Naturlehre"をカントはしばしば講義の底本として用いた。なお、カントの論敵であるJohann
August Eberhardtとは別人である。
Johann Jacob Engel
ヨーハン・ヤーコプ・エンゲル
1741-1802
ローストック、ビュッツォウ、ライプツィッヒで長期間学んだ後、一七七六年にベルリンのギムナジウムの教授となり、一七八六年には学術アカデミーの会員になった。いわゆる通俗哲学者。雑誌『世間のための哲学者』(Philosoph
fu#r die Welt)の編集者。カントは一七七七年にこの雑誌の第二部に「さまざまな人種について」の改訂版を寄稿している。
Gotthilf Ettner
ゴットヒルフ・エットナー
?-?
ブレスラウ生まれの学生。一七七九年五月二九日にケーニヒスベルク大学に学籍登録されている。ビースターによってカントに紹介されている。
Johann Georg Heinrich Feder
ヨーハン・ゲオルク・ハインリッヒ・フェーダー
1740-1821
一七六八年以降ゲッティンゲンの教授。クラウスが彼を通じてゲッティンゲンに職を得ようとした。ガルヴェのいわゆるゲッティンゲン書評は、フェーダーがガルヴェの稿を短縮改竄したものである。後には幸福主義の立場からカント倫理学を批判した。その批判の著作は一七八七年に出版されたU#ber
Raum und Kausalita#t zur Prufu#ng der Kantischen Philosophieである。
Reinhold Forster
ラインハルト・フォルスター
1729-1798
その息子
Johann Georg Adam Forster
ヨーハン・ゲオルク・アーダム・フォルスター
1754-1794
親子でクック(James Cook, 1728-1779)の第二回世界旅行(1772-1775)に参加。息子は一七七八年にカッセルの教授になった。 父親は一七八〇年にハレの自然史の教授になった。
父親はドイツにおける比較民族学地理学の創始者の一人とされる。父親の著書である"Observations
made during a voyage round the world on physical geography, natural history,
and ethic philosophy" London, 1778.は、息子によるドイツ語訳で一七八三年に出版された。
Leopold Friedrich Franz
レオポルト・フリードリッヒ・フランツ
1740-1817
デッサウ侯。汎愛学舎の運動を熱心に支援した。最初の汎愛学舎はデッサウにつくられた。
David Friedla#nder
ダーフィット・フリートレンダー
1750-1834
ケーニヒスベルク生まれのユダヤ人商人。カントの聴講生でもあった。一七七一年にベルリンに移って銀行家となり、メンデルスゾーンやヘルツと親しく交際した。ユダヤ人の市民的地位向上のために尽くし、ユダヤ人としてはじめてベルリン市の参事会員になった。
Christian Garve
クリスティアン・ガルヴェ
1742-1789
当時有名な通俗哲学者(Popularphilosoph)。ドイツにイギリスの思想を紹介した点で重要(たとえば、バークの『崇高と美の観念の起源』はかれの翻訳でドイツに知られるようになった)。ブレスラウ生まれで一七七〇年にライプツィヒの道徳哲学教授となったが、健康上の理由で一七七二年にブレスラウに戻り、そこで没するまで一切の公職に就かなかった。『純粋理性批判』にたいするいわゆるゲッティンゲン書評や、『基礎づけ』執筆の機縁となったキケロ義務論の翻訳書など、カントとの関係で最も重要な通俗哲学者である。
Johann Jakob Gebauer
ヨーハン・ヤーコプ・ゲバウアー
1745-1818
ハレの出版業者。一七七九年一〇月六日のカントあて書簡で自分が出版する本についてカントに便宜を求めるいささか図々しい振舞いをしている。
Friedrich von Gentz
フリードリッヒ・フォン・ゲンツ
1764-1832
ベルリンで造幣局長官を勤めた父親Johann Friedrich Gentz(1726-1810)の依頼でメンデルスゾーンがカントに紹介した。一七八四年から一七八六年にかけてケーニヒスベルクで法学と哲学を学び、カントの講義も聴講。後にバークの『フランス革命の省察』をドイツ語に翻訳し、また同革命に関する論説を発表して論壇で大きな注目を集めることになる。
Johann Friedrich Gottlob Goldhagen
ヨーハン・フリードリッヒ・ゴットロープ・ゴルトハーゲン
1742-1788
一七六五年からハレの哲学自然史教授。一七七八年から医学部正教授。
Joseph Green
ジョセフ・グリーン
1727-1786
イングランド生まれでケーニヒスベルクに移住し、委託販売商を営んで成功した商人。カントと親しく交際した。商人というよりもむしろ学究肌の人であったらしい。カントに時間厳守を教えたのは彼であったと言われている。
Friedrich August Grunert
フリードリッヒ・アウグスト・グルーナート
1758-1829
ハレの印刷業者。『純粋理性批判』を印刷した。
Johann Friedrich Hartknoch
ヨーハン・フリードリッヒ・ハルトクノッホ
1740-1789
リーガの出版業者。ケーニヒスベルクで神学を学んだ。カンター書店の店員の後独立し、最初はミータウで、後にはリーガで書店を営んだ。バルト海沿岸地方の思想界に大きな役割を果たした。ヘルダーから『純粋理性批判』の完成が近いことを聞いてカントにその出版を申し出た。その後、『プロレゴメナ』『道徳形而上学の基礎づけ』『自然科学の形而上学的諸原理』『実践理性批判』さらには『美と崇高の感情についての考察』および『視霊者の夢』の新版はハルトクノッホが出版した。
Gottfried Lebrecht Hartung
ゴットフリート・レープレヒト・ハルトゥング
1747-1797
ケーニヒスベルクの出版業者。
Karl Reinhold Heintz
カール・ラインホルト・ハインツ
1745-1807
一七七九年からケーニヒスベルクの法律学教授。
Franz Hemsterhuis
フランツ・ヘムステルホイス
?
オランダの哲学者、考古学者。
Marcus Herz
マルクス・ヘルツ
1747-1803
ベルリン生まれ。一七六六年から一七七〇年までケーニヒスベルクで学ぶ。彼は最初は商業見習いのためにケーニヒスベルクに来たのだが、すぐに医学研究に転じた。カントの最も愛した弟子の一人で、一七七〇年にはカントの『就職論文』の公開討論において応答弁護者の役を努めた(ヘルツはユダヤ人であり、この人選には抵抗があったらしいが、カントは譲らなかったという)。
同年ベルリンに帰って医師となり、一七八六年には哲学教授となった。ベルリンにおいてカント哲学の講義を行い、ツェドリッツ伯をはじめとするベルリンの人々にカント哲学を広めた。
医学関係の著書……Grundris# aller medizinischen Wissenschaften, 1782
Theodor Gottlieb von Hippel
テオドーア・ゴットリープ・フォン・ヒッペル
1741-1796
『出世街道』(Lebenslaeufe anch aufsteigender Linie. 1778-1781)などの、イロニーや憂愁や社会風刺が入り交じった文学作品で知られる人物で、カントの昼食によく招待された友人であった。一七八六年には枢密院軍事顧問官、ケーニヒスベルク市長になった。カントは「料理法批判」を書くだろう、と言った人物である。
Dirk van Hogendorp
ディルク・ファン・ホーヘンドルプ
1761-1830
オランダ史上有名な政治家Gijsbert Karelvan Hogendorp(1762-1834)の兄で、一七八〇年に中尉としてケーニヒスベルクにやってきて、カイザーリンク家と親しく交際し、そこでカントとも知り合った。彼はある決闘のせいでしばらくのあいだ軍務を果たすことができておらず、また賭事や借金のせいで破産してしまっていたので、一七八二年の夏にカイザーリンク伯は彼を解雇した。
Gottlieb Hufeland
ゴットリープ・フーフェラント
1760-1817
高名な医者であったフーフェラントの従弟で、『一般文芸新聞』の共同編集者であった。一七八八年以降イェーナの法学教授となる。
Johann Benjamin Jachmann
ヨーハン・ベンヤミン・ヤッハマン
1765-1832
カントの学生であり写字生であった。後にケーニヒスベルクで医者となった。カントの伝記を書いたヤッハマンの兄。
Reinhold Bernhard Jachmann
ラインホルト・ベルンハルト・ヤッハマン
1767-1843
最も有名なカントの伝記『イマヌエル・カント ある友人への手紙によって物語る』の著者。一七八三年ケーニヒスベルク大学に入学、翌年カントの写字生となり、九年間カントの講義を聴く。
Ludwig Heinrich Jakob
ルートヴィッヒ・ハインリッヒ・ヤーコプ
?
カントの小文"Einige Bemerkungen zu L.H.Jakob's Pru#fung der Mendelsshon'schen
Morgenstunden"は、ヤーコプの著書"Pru#fung der Mendelssohnschen Morgenstunden
oder aller spekulativen Beweise fuer das Daseyn Gottes ..."(1786年10月)において、ヤーコプの序言の後につけて出版された。
Daniel Jenisch
ダニエル・イェーニッシュ
1762-1804
ケーニヒスベルクに学び、後にベルリンのニコライ派教会の牧師になった。アイスキュロスの翻訳Agamemnon,
ein Trauerspiel des Aeschylus(1786)、U#ber Grund und Werth der Entdeckungen
des Herrn Professor Kant in der Metaphysik, Moral und Aesthetik(1796)、Diogenes
Laterne(1799)などの著書がある。ケーニヒスベルク時代にシュルツやハーマンと交友があった。シラーが「ベルリンのイェーニッシュは何にでも鼻をつっこむ愚か者だ」といささか酷にすぎる人物評をゲーテに書き送っているが、かれの諷刺好きあるいは作り話好きが、当時の思想界にいくらかの悶着を起こしたことは事実である。四二歳のとき、鬱状態に苦しんだ末、入水自殺をとげた。
Aron Isaac Joe"l
アーロン・イザーク・ヨーエル
1749-?
一七七三年にケーニヒスベルク大学に入学。カントの聴講者だった。後にケーニヒスベルクのユダヤ人病院の医師になった。
Johann Heinrich Kant
ヨーハン・ハインリッヒ・カント
1735-1800.
カントの弟。ケーニヒスベルクで神学を学び、クーアラント(現在のラトヴィア共和国の南部とリトアニア共和国の一部にあたる)で家庭教師、一七七五年にミータウのギムナジウム副校長。後に校長。一七八一年には地方牧師となって、クーアラントのアルトラーデン村に定住。神学関係の友人の妹であるMaria
Reimerと結婚し、四人の子どもを設けた(Amalia Sharlotta, Minna, Friedrich
Wilhelm, Henriette,ただし、長男Eduardが早くに亡くなっているので、Eduardを入れれば五人である)。
Mariaは、一七八二年九月一〇日づけでヨーハン・ハインリッヒがカントにあてた手紙で、後書として、カントに贈ってもらった本(Die
Hausmutter in allen Gescha#ftenもしくはその抜粋本)にたいする礼を述べている。
Johann Jakob Kanter
ヨーハン・ヤーコプ・カンター
1738-1786
ケーニヒスベルクの出版業者であり書店主。『ケーニヒスベルク学術政治新聞』(Ko#nigsberger
Gelehrte und Politische Zeitungen)の発行者。ケーニヒスベルクの著名人たちと深い交流をもっていた。カントは一七六六年から一七六九年までカンター宅の二階に住み、そこで隣家の鶏の鳴き声に悩まされたという。
Winzeslaus Johann Gustav Karsten
ヴィンツェスラウス・ヨーハン・グスターフ・カルステン
1732-1787
最初ローシュトックやビュッツォウで論理学の教授。一七七八年からハレの数学物理学教授。
Heinrich Christian Reichsgraf von Keyserling
ハインリッヒ・クリスティアン・カイザーリンク帝国伯
1727-1787
クーアラント生まれでライプツィッヒで学んだ。ザクセンやロシアで公務についていたが、一七七二年の第一次ポーランド分割のあと公務を退き、ケーニヒスベルクで暮らした。彼の邸宅はケーニヒスベルクの社交界の中心となり、カント、ハーマン、ヒッペル、クラウスなどがよく訪れた。
(「公務」ではなくて「軍務」とするべきか?)
Christian Jakob Kraus
クリスティアン・ヤーコプ・クラウス
1753-1807
カントの門弟であり友人。一七七一年にケーニヒスベルク大学に入学後、最も親しいカントの食卓仲間となった。一七七七年から翌年までカイザーリンク伯爵家の家庭教師。一七八〇年以降ケーニヒスベルク大学の実践哲学および国家学教授。後には、カントを尊敬しつつも、ハーマンに近づいた。ドイツにアダム・スミスを紹介した。
Johann Gottlieb Kreuzfeldt
ヨーハン・ゴットリープ・クロイツフェルト
1745-1784
ケーニヒスベルクの詩学教授。マンゲルスドルフがケーニヒスベルクに赴任する際の行違い事件で名前が出てくる。
Johann Ernst Lu#deke
ヨーハン・エルンスト・リューデケ
1746-1807
ベルリン生まれで一七六五年にケーニヒスベルク大学に学籍登録されている。一七七六年以降はベルリンのペトリ教会の説教師。
Carl Ehregott Mangelsdorff
カール・エーレゴット・マンゲルスドルフ
1748-1802
王立プフォルタ学院(後にフィヒテやニーチェを生むことになる)出身で、一七七〇年以来ハレで私講師として文学や歴史の講義をしていたが、その後デッサウの汎愛学舎で五年間教師として活動し、再びハレに戻っていた。バーセドウの『初歩読本』をラテン語に翻訳している。一七八二年に歴史学および雄弁術の教授としてケーニヒスベルクに招聘された。
Philipp Friedrich Theodor Meckel
フィリップ・フリードリッヒ・テオドーア・メッケル
1756-1803
当時高名な医者。
Christoph Meiners
クリストフ・マイナース
1747-1810
ゲッティンゲンの哲学教授。一七八六年の著書"Grundris# der Seelen-Lehre"の序言で、マイナースはカントを古代のソフィストや懐疑家に近い者とし、時代と若者たちをカントから守らなければならないとした。また、カントは意図して難解な言語表現をしており、これも若者たちにとって危険であるとした。
Johann Daniel Metzger
ヨーハン・ダニエル・メッツガー
1739-1805
ケーニヒスベルクの医学教授。
Robert Motherby
ロバート・マザビー
1736-1801
カントの親しい友人であるイギリス人商人(ケーニヒスベルクに移住)。夫人はCharlotte
Motherby(シャルロッテ・マザビー)。カントとは家族ぐるみの交際があり、夫婦の長男George
Motherby(1770-1799)はカントのすすめによってデッサウの汎愛学舎に入学した。
Friedrich Nicolai
フリードリッヒ・ニコライ
1733-1811
ベルリンの出版業者であり書店主。いわゆる通俗哲学者の一人。レッシングの友人。『一般ドイツ文庫』(Allgemeine
Deutsche Bibliothek)の発行者。旅行記"Beschreibng einer Reise durch Deutschland
und durch die Schweiz im Jahre 1781. Nebst Bemerkungen u#ber Gelehrsamkeit,
Industrie, Religion und Sitten.(Bd.1-12, 1783-1796) で有名。
Johann Adam Niezky
ヨーハン・アーダム・ニーツキー
1740-1780
一七六九年からハレの医学部教授。
Carl Joseph Oehme
カール・ヨーゼフ・エーメ
1752-1783
医者であり自然研究者。ビュフォンの『一般自然史』などを編纂出版した。
Wilhelm Albert Ferdinand Philippi
ヴィルヘルム・アルベルト・フェルディナンド・フィリッピ
?-?
ケーニヒスベルクの学生。カントの自然地理学の講義ノートの筆記者。
(ツェドリッツのカントあて書簡でこの学生が言及されるが、これは論理学講義ノートでも出てくる学生か?)
Ernst Platner
エルンスト・プラットナー
1744-1818
ライプツィヒの医学生理学教授。ヤーコプが言及している「箴言」とはプラトナーの一七八四年の著書Philosophische
Aphorismen(第二版)のことである。
Friedrich Victor Leberecht Plessing
フリードリッヒ・ヴィクトール・レーベレヒト・プレッシング
1749-1808
数多くの大学で多くの分野を学んだ後、ケーニヒスベルクにやってきて、一七七九年一〇月二二日に学籍登録。一七八三年にマギスター取得。ケーニヒスベルクでは最初神学を学んだが、後に古代史と哲学の研究に没頭する。マギスター取得の際、プレッシングは身辺のいざこざから裁判沙汰になるのを恐れてケーニヒスベルクにいなかったのだが、当時学部長であったカントは、欠席のまま学位を授与できるよう尽力した。プレッシングは一七八八年にはドゥイスブルクの哲学教授となり、同地で一八〇八年に歿。ゲーテとの交友でも知られる。
Gotthilf Christian Reccard
ゴットヒルフ・クリスティアン・レッカルト
1735-1798
一七六五年以来ケーニヒスベルクの神学教授でありザックハイマー教会の牧師。彼はこの教会の敷地内に小さな天文台をもっていた。ベルヌーイが『ランベルト往復書簡集』を編む際に、ベルヌーイとカントとの連絡を仲立ちしている。
Johann Friedrich Reichardt
ヨーハン・フリードリッヒ・ライヒャルト
1751-1814
ケーニヒスベルク生まれで、一七六五年にケーニヒスベルク大学に学籍登録されておりカントの聴講者であった。一七七五年にベルリンのプロイセン王立楽団の楽団長。作曲家でもあり、著作家でもあった。
Friedrich Wilhelm Regge
フリードリッヒ・ヴィルヘルム・レッゲ
1750-1778
ケーニヒスベルク大学で学んだ後、汎愛学舎で働いた。一七七八年二月三日にデッサウで結核のため死亡。
Carl Daniel Reusch
カール・ダニエル・ロイシュ
1735-1806
ケーニヒスベルクの物理学教授。ケーニヒスベルクのハーバーベルク教会の塔に設置された避雷針に関して、カントと意見交換している。
Carl Ulysses Freiherr von Salis
カール・ウリセス・ザーリス男爵
1720-1800
一七七五年にマルシュリンスに汎愛学舎を創設したが一七七七年には廃校となった。
Johann Schultz
ヨーハン・シュルツ
1739-1805
ケーニヒスベルク近郊のレーヴェンハーゲンの牧師をしていた一七七一年に、『ケーニヒスベルク学術政治新聞』においてカントの就職論文の批評を書いた(同新聞第九四および九五号。一一月二二日および二五日)。カントのこの論文によって、「吟味を加えられるならば全形而上学に新たな時代が告げられる」見通しが開かれていると述べている。
一七七六年以来ケーニヒスベルクの宮廷説教師となり、私講師として純粋数学と天体観測の講義を行っていた。一七八六年には数学の正教授となる。一七八四年には『カント教授の純粋理性批判の解明』(Erla#uterungen
u#ber des Herrn Prof. Kant Kr.d.r.V)を、一七八九年および一七九二年には二巻本の『カントの純粋理性批判の吟味』(Pru#fung
der Kantischen Kr.d.r.V)を書いている。
Christian Gottfried Schu#tz
クリスティアン・ゴットフリート・シュッツ
1747-1832
イェーナの雄弁術詩学教授。『一般文芸新聞』(Allgemeine Literaturzeitungを創始した(一七八五年)。
Christian Gottlieb Selle(もともとはSell)
クリスティアン・ゴットリープ・ゼレ
1748-1800
ベルリンの慈善病院の医師にして教授。ベルリン・アカデミーの会員。一七八〇年に匿名で出版した二巻本の著作"Philosophische
Gespra#che"がある。カントはこれをライヒャルトを通じてもらっている。
Johann Joachim Spalding
ヨーハン・ヨアヒム・シュパルディング
1714-1804
ベルリンの上級宗教局評議官で、1764年以降ベルリンのニコライ教会の初代説教者。カントはシュパルディングが人間通であることを高く評価しており、倫理学講義でもその名を挙げている。著書にU#ber
die Nutzbarkeit des Predigtamts und deren Befo#rderung, 1772がある。
Johann Carl Philopp Spener
ヨーハン・カール・フィリップ・シュペーナー
1749-1827
ベルリンの出版業ハウデ・シュペーナー出版(Haude- und Spener'sche
Buchhandlung)主人。『ベルリン月報』(Berliner Monatschrift)の発行者でもある。
Gotthilf Samuel Steinbart
ゴットヒルフ・ザムエル・シュタインバルト
1738-1809
一七七四年以来フランクフルト・アン・デア・オーデンの哲学教授であり、ツューリヒャウ(Zu#llichau)の教育施設の指導者。この教育施設は敬虔主義者アウグスト・ヘルマン・フランケ(August
Hermann Francke, 1663-1727)の理念にもとづいた学校であった。
Johann Gottfried Steudel
ヨーハン・ゴットフリート・シュトイデル
1743-1790
シュヴァーベン人。クラウスの友人。パドゥアの天文学教授であるJoseph
Toaldoの"Witterungslehre fu#r den Feldbau"(農業のための気象学)(1777)を翻訳した。
Johann Stuve
ヨーハン・シュトゥーフェ
1751-1793
ブラウンシュヴァイクの教育者。一七八六年に同地のカタリノイム(Katharineum)学校長になった。
Johann Georg Sulzer
ヨーハン・ゲオルク・ズルツァー
1720-1779
スイス生まれでヴォルフ派の美学者。一七五〇年以降ベルリンの学術アカデミー会員。彼の著書である"Allgemeine
Theorie der Scho#nen Ku#nste" 1771-1774は当時の美学芸術論に大きな影響をもった。
Johann Nicolaus Tetens
ヨーハン・ニコラウス・テーテンス
1736-1807
一七七六年から一七八九年までキールの哲学教授。その後デンマーク政府で高官として働いた。著作として一七七六年に出版した『人間の自然本性とその発展についての哲学的試論』(Philosophische
Versuche u#ber die menschliche Natur und ihre Entwickelung. 2 Bde.)がある。
Gottlob August Tittel
ゴットロープ・アウグスト・ティッテル
1739-1816
カールスルーエの教授。幸福主義の立場からカントの批判的倫理学にたいし攻撃を行った。著書として、一七八六年に出版した『カント氏の道徳改革』(U#ber
Herrn Kants Moralreform)がある。
Hans Ehrich Thunmann
ハンス・エーリッヒ・トゥーンマン
1746-1778
一七七二年からハレの雄弁術哲学教授。
Jean Claude Toussaint
ジャン・クロード・トゥーサン
?-?
ケーニヒスベルクの商業顧問官。
Friedrich David Wagner
フリードリッヒ・ダーフィット・ヴァーグナー
?-?
ケーニヒスベルクの書店主。
Hieronymus Gottfried Wielkes
ヒエロニムス・ゴットフリート・ヴィールケス
1742-?
ケーニヒスベルクで神学を学んだ。ベルリンの士官学校教授。その後フランクフルト・アン・デア・オーデンの同学校教授。さらにその後、ヴォルコンスキー(Wolkonski)家の王子LeoおよびMichaelの家庭教師としてロシアに行った。この両名は一七六九年にケーニヒスベルク大学で学んでおり、その時にはヴィールケスも同行していた。
Thomas Wizenmann
トーマス・ヴィンツェンマン
1759-1787
ヤコービの友人の哲学修士。その著である"Die Resultate der Jacobischen
und Mendelssohnschen Philosophie; kritisch untersucht von einem Freywilligen"は一七八六年に出版された。この書にたいするカントの評価は同年一〇月に『ベルリン月報』に発表された『思考において方向を定めるとはどういうことか』の冒頭に見られる。
Christian Heinrich Wolke
クリスティアン・ハインリッヒ・ヴォルケ
1741-1825
一七七〇年以来バーゼドウの助手をつとめ、バーゼドウのあと一七七六年にデッサウの汎愛学舎の指導者となった。
Michael Mikitisch Wolkonski
ミヒャエル・ミキーティッシュ・ヴォルコンスキー
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侯爵でありモスクワ総督。
Karl Abraham Freiherrn von Zedlitz
カール・アブラハム・ツェドリッツ男爵
1731-1793.
一七七〇年以降プロイセンの司法大臣。一七七一年以後は宗教・教育大臣を兼務。一七七一年から一七八八年の期間、ハレ大学の上級監督官であった。一七七八年にはカントをハレ大学に招聘した(ケーニヒスベルクでの年俸が236ターラーであったのにたいして、ハレでの年俸として800ターラーをツェドリッツは提示したが、カントは辞退した)。カントの自然地理学の講義ノートをベルリンで読み、また、マルクス・ヘルツを通じてカント哲学の講義を受けた。『純粋理性批判』は彼に捧げられている。
Eberhard August Wilhelm von Zimmermann
エーベルハルト・アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ツィンマーマン
1743-1815
ブラウンシュヴァイクの数学教授。その著書"Geographische Geschichte
des Menschen, und der allgemein verbreiteten vierfu#s#igen Thiere". Leibzig,
3 Bde. 1778-1783のうち、カントは確実にその第一巻を読んでいる。
彼は人種はたった一つの種から由来するという説を擁護しており、その点で原理的にカントと同じ立場に立つ。また彼は、人種の多様性が形成される原因は気候と栄養であると考えており、この点でもカントと同様である。けれども彼は、カルムク人形成を個別的なものにいたるまで寒冷の影響から導き出しうるというカントの考えを極端であり事実にも反するとしている。アメリカ人の赤褐色は炭酸ガスの作用によるものだとするカントの考えにも疑念を呈している。
Johann Friedrich Zo#llner
ヨーハン・フリードリッヒ・ツェルナー
1753-1804
ベルリンの牧師。著書"U#ber Moses Mendelssohn's Jerusalem"(1784)