美感的判断について

(紙数の関係で詳しい注は省略する。KdUからの引用は原版の頁づけ。その他は慣例通り)

[0-1]  美感的判断(das aesthetische Urteil)を巡って『判断力批判』第一部で展開されるカントの思想には、「主観性」という徴表が確かに認められる。たとえばカントは、美感的判断の「規定根拠は主観的以外ではあり得ない」(4)とか、「対象の表象における主観的な合目的性が……趣味判断の規定根拠をなす」(35)と述べている。

[0-2]  この「主観性」という徴表に対しては、すでにへーゲルが、カントは美ないし芸術について「単に主観的にその判定と産出のみを考え、即且つ対自的に真にして現実的なるものとして考えていない」と、またショーペンハウアーも「最高に頭の良い盲人が組み立てた色彩論」と批判していた。このように、主観性に対する批判はカントのすぐ後に始まっていた。そして『真理と方法』におけるガダマーも、同種の批判を「カントによる美学の主観主義化」というタイトルのもとで展開している。ガダマーによれば「カントが美学を趣味判断に基礎づけたことは、美という現象の両面、すなわちその経験的な非・真理性とそのア・プリオリな普遍性要求とを、ともに正しく考慮に入れていると認め得るだろう。しかし、カントは趣味の領域における批判のこのような正当化と引き換えに、趣味に何らの認識上の意義も認めないという代償を払っている」のだという。また、芸術の領域において真理への問いをそもそも立てない」のがカントの基本的な意図だったというのである。

一、

[1-1]  しかしこのようなガダマーの解釈は正当なのだろうか。趣味判断は認識的なものとの関係を全く持っていないのだろうか。われわれはこれに対して否と答え得ると思われる。

[1-2]  カント哲学においてあるものが「判断」と呼ばれる場合、それは知性的なものとの何らかの関係を持たねばならない。そして趣味判断はその知性的なものとの関係を、すなわち悟性との関係を確かに持つ。すでに『判断力批判』冒頭第一節で、「おそらく悟性と結びついた(mit dem Verstande verbunden)構想力」(4)とか、「趣味判断には依然として悟性への関係が含まれる」(ebd.)と示唆されている。論の進んだ第十五節では、「美感的判断としての趣味判断には(すべての判断に属するように)悟性も属している……」(48)と明確に述べられている。こういう点を趣味判断が持つ「悟性とともに(mit Verstand)」の契機と呼ぶとすれば、まさにこの契機が、第一批判において論及された「悟性によって(durch Verstand)」という契機を持つ認識判断から趣味判断を区別する一徴表なのであり、またそれは、「感覚において感官に気に入るもの」(7)であり、「全く感覚に基づく」(11)快適の感情から、美の感情を種的に区別する一徴表なのである。

[1-3]  この「悟性とともに」という契機を確認することによって、趣味判断の規定根拠である快感情がそこに基づくものとして、もしくはそれを意識することが快感情であるものとして、カントが提示する事態を理解する糸口が与えられる。その事態とは、諸認識能力の戯れ(Spiel)、調和(Harmonie)、均衡の取れた協和(proportionierte Stimmung)、合致(Zusammenstimmung)といった言葉で表現されている、心の状態である。

[1-4]  第一批判での「悟性と感官とが互いに合一することからのみ、認識は生じうる」(B75-76)という言葉から容易に推察されるように、認識判断においても認識能力の合致と呼びうる事態が生じてはいる。しかしその場合は上述の「悟性によって」という契機が働いている。すなわち、認識判断における諸能力の合致は、悟性の概念的範疇的な規則にしたがって構想力が図式化し、悟性的な概念のもとに直観が包摂されるという仕方で生じる。そこでは悟性の指令(Vorschreiben)によって、そのもとで能力間の合致が成立する。しかもその合致は、悟性が持つ「特定の概念が諸能力をある特殊な認識規則に制限する」(28)という限定された姿での合致なのである。

[1-5]  これに対し、「悟性とともに」という契機を持つ趣味判断において成立する諸能力の合致は、悟性の指令によらずに成就される合致である。この場合、悟性は概念的なものを感性的なものへ適用するという方向性を持っていない。悟性は概念的範疇的に機能せずに、しかも「ある特定の認識に制限されることなく」(37)、ただ悟性そのものとして「一般(Uberhaupt)」ないし「未規定性(Unbestimmtheit)」という次元にある。これに応じて構想力の側も、「概念なしで図式化する」(146)「自由な」構想力である。構想力は認識判断でのように悟性の強制の下にあるのではない。趣味判断が基づいているのは、認識判断には見られなかった、認識能力間の別の秩序である。趣味判断においては「構想力が悟性に仕えるのではなくむしろ悟性が構想力に仕える」(71)のであり、「自由な構想力が悟性を呼び覚ます」(161)ことによって、戯れ、調和といった表現が暗示している、強制のない自由な能力間の合致が生じるのである。この合致においては悟性が概念的範疇的に機能していないということ、このことは悟性の関与を否定するのではない。悟性は一般ないし未規定性というあり方において、感性的所与を把握する能力たる構想力との関係の成就を経験するのである。「その自由における構想力がその合法則性における悟性へと合致する」(146)とカントが述べる際の「合法則性における悟性」という言葉が、悟性の「一般」というあり方を物語っている。趣味判断においては、概念の能力一般としての悟性と自由な構想力とが、限定し限定されることなく、すなわち双方その自在(Beisichsein)と言うべきあり方において合致するのである。かかる特定の認識に制限されざる合致を、われわれは「一般」という次元での合致、「合致一般」と呼び得るだろう。そして、認識ないし判断が成立するための最初の制約は認識能力間の合致であるから、この「合致一般」は、『判断力批判』の鍵概念の一つであるところの、認識の前提としての「認識一般(Erkenntnis ueberhaupt)」なのである。趣味判断の規定根拠である美の感情とは、この認識一般たる諸能力間の合致についての感覚または意識である。それは「与えられた表象における、認識一般のための諸表象能力の自由な戯れの感情」(28)なのである。理論的な働き方をする悟性は、概念によって直観をverstaendlich machenする働きをするのであるが、そういう悟性は、みずからのそのVerstaendlich-machungという働きがそこに基づいている前提を洞察できない。概念による認識の前提は、概念による認識によってでは知られない。それは感情という仕方でのみ、知られ得るのである。

[1-6]  認識の前提についてのカントの言葉を挙げておく。構想力と悟性との自由な戯れという「心の状態、言い換えれば認識一般への諸認識能力の協和、そしてさらに、(それによって対象がわれわれに与えられるところの)ある表象を認識するための、その表象にとってふさわしいような均衡(Proportion)……認識作用(Erkennen)の主観的制約としてのこの均衡なしでは、結果としての認識は発現し得ないかもしれない」(65)。また、「認識一般にふさわしいこの主観的関係」すなわち構想力と悟性との自由な戯れとは、「あらゆる規定された認識が常に、主観的な制約としてのその関係に基づく」(29)ものである。この自由な戯れとは「すべての認識が要求するところの均衡の取れた協和」(31)である。結果としての認識がそこに基づいているもの、認識の前提をなすもの、これが趣味判断の根底に存する。趣味判断においてわれわれは、言うならば認識の根底を感情という仕方で経験するのである。この場合に「主観的な」制約と言われるのは、主観内の能力におけるという意味であるが、この重要性を見逃してはならない。なぜなら、そもそも主観的な制約を満たさない判断や認識などは、客観性を云々すべくもないからである。

[1-7]  ところで、認識一般であるところのかかる能力間の合致は、何か神秘的な仕方で成立するのではない。一般に、能力間の合致を成立させる媒介の働きを司るのは判断力である。そして『判断力批判』での論究の対象は、悟性の概念的機能によって指令される規定的判断力ではなくて、反省的判断力であり、美感的判断力あるいは趣味能力も、反省的判断力の一形態である。反省的判断力は与えられた特殊のために普遍を発見するということを責務とする(XXVff.)のであるが、この特殊から普遍へという方向性は、趣味判断の根底に存する自由な合致の上述した独特な性格においてすでに看取しうる。その合致においては悟性が構想力に仕えるのであって、概念的なものからの、普遍の側からの包摂という方向性はないのであった。その合致においてはむしろ構想力が悟性を呼び覚まし、感性的なものすなわち特殊の側から普遍へという方向性において、包摂と言うよりむしろ調和が成就されるのであった。構想力が把握した感性的なものと悟性の合法則性との間に、概念的な強制なしに自由に、親和性が発見され両者が合致するのであった。カントにおいて、一般に反省とは概念形成の働きのことを意味するが、美感的判断の場合は何か特定の概念が形成されるわけではない。しかしそこでは与えられた特殊と未規定性一般という次元の概念性との強制のない統一が成就されているのである。「美しいものについての適意は、何らかの概念(どのような概念化は未規定として)に導くところの、対象についての反省に依存しなければならない」(11)のであり、「美しいものを判定するとき、美感的反惰力は、自由な戯れにある構想力を悟性に関係づけて悟性の概念一般と(その規定は抜きで)合致させる」(94-95)。このように反省が快の感情に先行する。趣味判断の成立は、事柄上の順序としてはまず反省があり、それを基礎として快感情が経験され、この快感情を規定根拠として「美しい」と述語づけられるのである。この順序、反省が一番の根底であること、これは第九節で「趣味の批判を解く鍵」(27)としてカントが明らかにしている事柄である。

[1-8]  さて、これまでの論述で筆者は次のことを述べた。趣味判断の一番の根底には反省の働きが存する。この反省によって成立する構想力と悟性との自由な合致が美という快感情の規定根拠である。しかもこの合致は、主観内の能力間におけるという意味で主観的ではあるが、認識や判断を成立せしめる制約として認識の前提であるところの「認識一般」である。かかる認識の前提は概念的には捉え得ず、感情という仕方でのみ主観に知られうる。これらの点を考慮すれば、カントは趣味に何らの認識上の意義も認めないというガダマーの簡単には納得しがたいものとなる。第一批判で論究されていた理論的な領野におけるごとき認識は、確かに趣味判断の関与するものではなく、そのような意味での認識上の意義は趣味判断には認められない。しかし趣味判断においてはそのような意味での認識の前提が経験されているのである。それにガダマー自身、趣味判断に理論的な領野におけるごとき認識を帰そうというのではあるまい。もし彼が何らかの認識上の意義を趣味判断に認めようというのならば、その場合の認識とは、カントが言う理論的な意味での認識の概念とは違った意味の、あるいはそれを拡張した意味の認識でなければならないだろう。そういう意味での認識ならば、『判断力批判』に見いだし得ないだろうか。

[1-9]  そこで、趣味判断の根底に存する反省の働きについてもう少し考えてみよう。反省的判断力の行なう反省の働きは特殊から普遍へという方向性を持ち、その普遍にあたるものは悟性の概念性一般であったが、一方で特殊とはどういうものであるのか、この点をもう少し見ておく必要がある。

二、

[2-1]  先の引用文にも反省は「対象についての反省」であるとあった。正確に言うと、反省とは「それによって対象が与えられる表象についての反省」であり、その与えられた表象が持つ感性的多様という特殊が反省の対象である。しかも美感的経験においては、この多様は理論的領野におけるようにバラバラの没連関的なものとしてあらわれてくるのではない。「一なるもの(これが何であるべきかは未規定である)への多様の合致」(45f.での、物の表象におけるdas Formaleの規定)という、形式性をそなえたものとしてあらわれてくるのである。与えられた表象のかかる形式を構想力が把握し、それが悟性の合法則性と合致することを反省的判断力が発見するならば、快感情が生じる。「快とは、反省的判断力において働き、反省的判断力においてある限りでの認識能力に、客観が適合すること以外のなにものも表現し得ない」(XLIV)。感性的所与のこの形式性についてカントは次のように語る。「感官の与えられた対象を把握するとき、構想力はその客観の一定の形式に拘束され、その限りで自由な活動をしないけれども、しかし、仮に構想力が自己自身に自由にゆだねられたとしたときに悟性の合法則性一般と一致して描くであろうような、そういう多様の合成を含む形式が対象から構想力へ手渡されるということ、これはなお十分によく理解されるところである」(69)。構想力が自由において把握し描く形式は、対象の側に根拠を持つ。それは「印象の規則的な戯れ(すなわち様々の表象の結合における形式)」(40)であり、カントはこれを客観の形式と呼ぶ。美は「自然の外的直観についての反省」(294)にのみ関係し、「自然の美に対しては、われわれはその根拠をわれわれの外に求めねばならない」(78)。趣味判断において「合目的性は客観とその形態に根拠を持つ」(131)。すなわち、美感的経験における感性的多様とは、悟性的な指令のないところで悟性の法則性に一致しうるような、そのような形式性を告知する質料なのである。この形式性が、合目的的に認識能力と合致するのである。

[2-2]  したがってわれわれは「関心なしに」「概念なしに」という周知の契機を対象と無関係の没対象的なものと解して、ショーペンハウアーのような非難をカントに浴びせることはできない。趣味判断は単に理論的な見地から見る限りでは非対象的と言えるかもしれないが、決して没対象的ではない。美感的な判定はその相関項として確かに対象を持つ。しかも「美しい」と判定が下される場合には、構想力の描く感性的多様の形式性と悟性の合法則性一般との合致が成立しているのであり、それを通じて人間的主観の認識ないし判断の前提が主観に知られているのであった。認識の前提という基本的なところで、事物の側からの主観に対する親和性の開示が経験されるのである。対象はそのような美感的性質と言うべきものを反省的判断力に向かって開示する。美感的性質の発見は、人間の認識作用に対して、事物が事物の方から親和性を開示して応じるという経験である。自然と人間主観がそういう仕方で連関するという経験なのである。

[2-3]  美感的な経験においては感性的多様が形式性を告知する質料としてあらわれるということ、この決定的な事柄は、反省的判断力が根底において働くことに由来する。感性的多様は、理論的領野においては畢竟規定されるべくしてある自然であり、実践的領野においては同じく抵抗し障害となる自然である。これらとは違った姿で自然があらわれてくるのは、反省的判断力が働くという自然に対する主観の新しい態勢に由来する。この新しい態勢を成立させる機縁をカントは次のように述べている。「規定的判断力は、悟性が与える普遍的超越論的法則のもとでは単に包摂するだけである。法則はあらかじめア・プリオリに指定されており、したがって規定的判断力は、自然における特殊を普遍のもとに従属させうるために、法則を自分自身で考える必要はない。しかしながら、自然の形式は極めて多様であり、言わば普遍的超越論的な自然概念の変様態も極めて多い。これら形式や変様態は、純粋悟性がア・プリオリに与える上述の法則が(感官の対象としての)自然一般の可能性にのみかかわるものであるゆえに、その法則によっては未規定なままに残される」(XXVI)。このように、規定的判断力が働く場面では、特殊は悟性にとって洞察不可能な疎遠なものでありつづける。悟性は、可能性の制約という次元の普遍的な自然一般を洞察することはできるが、多種多様な特殊的法則、特殊な事物の特殊的形式を洞察することはできない。規定的判断力が働く場面において人間主観は、おのれの悟性法則がある限界を持つこと、感性的所与に対して十分なものではないことを知らされるのである。これが、反省的判断力が働く機縁となる事態であり、規定的判断力から反省的判断力へという、自然に対する主観の態度変更を生じさせる。この態度変更を通じて感性的多様は指令的規定的な先行的把捉から解放され、形式性を告知する質料という、人間的認識能力にみずからなじみうるものとしてあらわれてくるのである。

[2-4]  人間理性の態度変更を確認したことによって、われわれは最後に、美感的判断(趣味判断)に帰されるべき基本的意義を見定めることができる。規定的判断力から反省的判断力への移行は、特殊が疎遠なままに残されるという、人間理性のある局面での限界から生じるものであった。しかしそれ人間理性はそれ自身が本来体系であり、あまねき連関体としての体系を求めることは理性の必需である。理性は「すべての認識を一つの可能的体系に属するものと見なす」(B502)のであり「それ自身で存立する体系的全体においてはじめて満足を見いだす」(B825)のであった。さらに、「純粋理性に与えられた対象に関する問題は、いかなる問題もその同じ人間理性にとって解決不能ではない」(B505)のであった。したがって、特殊が疎遠なものとして洞察不可能なままに残されるということは、体系を求める理性にとって基本的なところでの一種の不如意である。そこにおいて、自然に対する規定的な態勢から反省的な態勢への移行が生じ、与えられる多様は悟性の法則的指令から解放される。その多様が、かえって形式性を告知して一般ないし未規定性における悟性と合致するのである。人間理性はこの美感的経験によってなるほど概念的に構成し洞察するのではない。しかしこれは、充実した連関体としての体系を求める人間理性が事物との関係形成を事物の側から満たしてもらい、先の不如意を解消するという快経験である。それがただちに厳密な意味での認識を生むのではないが、事物が疎遠なものではなくなり、体系性要求になじむ性質が自然において現在するという、自然と主観との親和的な連関形成の経験なのである。事物ないし自然の側からということを、われわれは自然の恵与(Gunst)と呼ぶことができる。ただしこの恵与の根底には、反省的判断力が働くという、主観の側が事物を先行的把捉から解放しその自在に置く恵与がある。恵与には二重の意味がある。主観と自然とが、恵与において、おのおのその自在において応じ合うということ、「Xは美しい」という判断はそれを語っている。「美しい物は人間が世界に適合していることを示す」(Reflexionen,1820a)のである。この「人間が世界に適合している」ことの経験は世界と人間との基本的なところでの連関形成の経験なのであり、基本的なところでの世界認識である。


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