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私はなぜ現在の科を選んだか

 私は血液内科にいくつもりであった。その理由は、血液内科学に興味があるからではなく、出身地の問題であった。広島の田舎に生まれ、大学卒業時には広島生まれの家内と結婚することになっていた。何より私の両親も広島に帰ることを望んでいた。当時、血液内科の教授(内野治人先生)の前任地が広島大学原爆医療研究所内科で、後任の教授は高校と大学の両方の先輩だったので、自分の中では必然の選択であった。

 卒業後27年たった今、「なぜ皮膚科にいるのかな? なぜ紀州和歌山にいるのかな?」と時々思う。直接的には、6回生の秋に皮膚科助教授の今村貞夫先生(後に教授、現在松江市民病院院長)に勧誘されたからである。といっても、「皮膚科にくると大金持ちにはなれないが、小金持になれる」、「内科は競争が大変で教授に名前を覚えてもらえない」、「臨床研究ができる」等が口説き文句で、瓶ビール2本とピーナツ一袋が餌であった。これでつられたわけではないが、入局締め切りの1月末に、気がつくと志望欄に記入していた内科を消して皮膚科と書き直していた。高校1年生のときに、腎炎で10カ月入院生活を送り、体力的に自信がなかったのも背景にあったかもしれない、つまり楽(ラクともタノシイとも読める)そうと考えたのだろう。

 「右にいけば右の幸せと不幸せ、左にいけば左の幸せと不幸せがあるさ」といき当たりばったりの人生なので、あまり振り返ってものを考えはしない。でも、いい人にたくさん出会ったことに感謝する気持ちでいっぱいである。

 学問的には、節目節目に旬の助教授に指導されたことである。研修医時代の皮膚科では今村先生、大学院生時代(病理学)は白井俊一先生、米国コロラド大学ではD. A. Norris先生。皆、将来の教授を目指したhard workerであり、明確な学問的policyを持っておられた。当然、三人とも教授になり、多くの業績を残されている。

 よい教授にも恵まれた。太藤重夫京大皮膚科教授、濱島義博京大病理学教授、瀧川雅浩浜松医大皮膚科教授なくして、今の自分はない。最後に友人である。京大皮膚科、病理学、浜松医大皮膚科のいずれにおいても、年上・年下を問わず「こいつにはかなわん」と心底思った同僚が数人いたことは幸せであった。今になって、私が助教授であった浜松医大時代、若い先生に何を残してあげることができたのかと自問するこの頃である。

 時々刻々変化する皮膚をみていると、「なぜ赤くなる? 白くなる? 青くなる?」など、疑問や興味が自然にわいてくる。私は、「赤い皮疹―紅斑と自己免疫」をテーマとして研究しているが、なぜ赤くなるのか未ださっぱりわからない。皮膚科をやめようと思ったことは一度もないから、結構向いているのかもしれない。若い先生と一緒に、自分の研究を続けていきたいものである。

最近になり、故郷は遠くにありて思うもの、と達観した。

本稿は日本医事新報社発行 月刊 Junior No.448 (2005年12月号) に収載された。   日本医事新報社

古川福実教授

皮膚科前教授:古川 福実

略 歴

皮膚科(和医大70年誌より)

Derma Dream

第114回 日本皮膚科学会総会
学術大会開催にあたって

和歌山県皮膚ガン
無料相談の歴史

自己炎症症候群との出会い

私はなぜ現在の科を選んだか

The art of medicine
-若き心と腕に期待して

皮膚科学は難しくない

研究のススメ

濱島語録

山田瑞穗
浜松医大皮膚科初代教授、元副学長
随筆、左右(とにかく)なんとか過ごしてはきたを掲載しました。

 
 
 

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