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災害支援活動報告

東日本大震災DMAT活動

島 幸宏

 2011年3月11日14時16分に発災した東日本大震災では約1時間後には厚労省から全国のDMAT隊員に向けて地震の発災と待機を指示する携帯メールが発信され、約150分後にはDMAT派遣要請がありました。

 和歌山県立医科大学附属病院では災害対策本部が設置され、救急集中治療部・岩﨑安博医師が統括DMATとして和歌山県庁に出向、救急外来ではDMAT出動要請に備えて緊迫した雰囲気でした。21時になり和歌山県庁は和歌山医大・那賀病院・橋本市民病院の各DMATに対して出動待機を要請し、3月12日3時すぎ和歌山医大DMAT(岩﨑・島と看護師2名・事務員2名)は伊丹空港に向かいました。

 未明の伊丹空港にはすでに多くのDMATチームが参集しており他病院のDMATとともに自衛隊機C-130に搭乗し、いわて花巻空港に到着しました。空港の倉庫に15床の簡易ベッドを並べ臨時の病床とし、全国から集まったドクターヘリ・消防防災ヘリ・警察ヘリで救助されてきた傷病者を収容し最低限の治療を行い被害の少ない花巻市・盛岡市の病院に転院を依頼し救急車で搬送しました。一部の重傷患者は自衛隊機で札幌・羽田に広域搬送を行いました。重傷者が続々と運び込まれて来ることを予測していたのですが地震・津波で亡くなられる方々が多く、難を逃れた方々は殆どが軽症から中等症であり津波の恐ろしさを感じました。

 3月の岩手の夜は寒く、初日に宿泊することができた施設は暖房が故障しており、布団を分けあって就寝しましたが寒さで何度も目を覚ますほどでした。被災者の方々の苦労の一部を垣間見たように感じました。いわて花巻空港には我々のいた約2日半で合計百数十人の傷病者が搬入されました。「短期間の活動で良いのか?」という思いと「早く帰りたい」という気持ちの両方を持ちながら和歌山県からの迎えのバスで帰路につき、3月15日10時に和歌山県立医科大学に帰りました。板倉学長をはじめ大勢の皆様に出迎えられ、58時間におよぶ我々のDMAT活動は終了しました。

東日本大震災に対する救護班(第1班)班長としての活動

川副 友

 東日本大震災発生当初には超急性期の被災地支援としてDMATが派遣されましたが、同時にその後方支援や、近畿におけるドクターヘリの調整、救急集中治療部スタッフが駆り出される中での日常診療の維持、そして近日中に決定されるであろう救護班派遣の準備が進行していました。現地や和歌山県災害対策本部から届く情報は二転三転し、様々な情報が錯綜し現場は非常に困惑していました。

 3月18日に漸く救護班出動が決定されました。第1班は医師2名・看護師2名・薬剤師1名・業務調整員2名とチャーターバス運転士2名という構成でした。班長には救急集中治療部・川副が病院長より指名されました。

 3月19日に出発した第1班の任務(現地活動3日間の4泊5日)は、被災地において救護を実行することだけでなく、バスに自己完結型支援を可能とする食糧・資器材などを詰め込み運搬し、被災地の安全を確認し現地での指揮命令に従い、さらに和歌山県として今後も継続した救護が行えるよう布石を敷くことが最大の使命でした。実際に和歌山県としての救護班は第34班まで継続派遣され、6月末まで活動しました。

 第1班が派遣されたのは岩手県沿岸地域の山田町でした。津波により町は壊滅し、町民約2万人のうち1万人以上の死者・行方不明者を出し、約5000人が避難生活を強いられている状態でした。被災地域に入った途端、報道で見た生々しい津波の傷跡を目の当たりにして茫然としたことを記憶しています。

 被災地のインフラ・行政・医療などの既存のシステムは崩壊し、周辺には未だに連絡が取れず被災状況すら把握できていない集落があり、電気水道の途絶えた地域に高齢者が箱詰めに押し込まれた避難所があるなど、不安要素が山積していました。加えて気温は5℃前後と寒く、震度4~5の余震が頻発する状況下でした。

 災害医療体制は町役場・保健所職員・現地医師会医師を核に、駆け付けたDMATチームおよび救護班チーム(計7〜8チーム)によって何とか体をなしていました。町の職員や現地医師たちも皆被災者であり、財産や、場合によっては家族を失くされており、かける言葉も見つからない悲惨な状況下で、皆が現地医療を何とかしたいと必死でした。和歌山県にもこれらの情報が提供されていたようですが、現地職員と支援チームで何とかやっていくしかない状況が続き、派遣された支援チームの重要性を再認識しました。

 我々はこの救護班活動を通して、いつどこで起こるかも知れない大規模自然災害に対して、常に出動できる準備とともに、他県からの支援チームを迎え入れられる準備をも考慮しておかなければならないことを痛感しました。


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